サンマ、ギンザケ、カレイ、サバ、イワシ、タコ、イカ……。女川の海は豊かな海だ。魚種が豊富で、味はどれも一級品。しかも震災後も魚そのものはよく獲れる。しかし、漁港や水産加工施設の被害が大き過ぎて、せっかく獲れた魚を思うように水揚げできない日々も続いている。風評被害を心配する声もある。そんな状況の中でも復活のその日に向けて、少しずつ歩みを進めている女川漁港の様子を、廻船問屋青木や代表・青木久幸さんに聞いた。
設備の被害が水揚げだけ減少に直結する悔しさ
20メートル近い大津波に襲われた宮城県女川町。かつての街の中心部に、津波によって横倒しになったままの鉄筋コンクリート造の女川交番がある。津波被害の恐ろしさを後世に伝えるため保存が検討されている建物だ。廻船問屋青木や代表・青木久幸さんの店舗兼住宅は、女川交番のすぐ近くにあった。もちろん津波で流されて今は跡形も残っていない。それでも青木さんは震災直後から女川漁港の復活に賭けて走り回ってきた。
津波被害で女川漁港は壊滅的な損害を受けた。その上、地震による地盤沈下で船を着けることができる埠頭がなくなった。応急工事で漁港が再開したのは7月1日。港はお祭りのように賑わったという。「でも、女川周辺の底引き漁は6月30日が漁期の最終日。つまり、7月1日の水揚げが最後になるのです。せっかく賑わいが戻って来たのに、次の日から水揚げなしでは悔しいでしょう。だから、1日に魚を持ってきてくれた漁師の人に、翌日以降も刺し網で獲った魚を水揚げしてもらうように頼み込んだのです」
女川の沖合、金華山の近くは刺し網の好漁場だ。それでも青木さんの依頼に応えてくれたのは1軒だけだった。なぜなら、漁港が再開したというものの、設備も流通網もひどい状況で、まともに漁業を営める状況ではなかったからだ。「震災当初は氷がありませんでした。比較的早く復旧した塩釜の港まで氷を買いに行っていたほど。その頃は道も悪いから、漁師さんが拠点としている浜までの行き来も大変でした。それに、女川は鮮魚よりも水産加工の割合が高い港なのですが、冷凍設備や水産加工場が壊滅していたのです」
加工ができないから鮮魚として流通させる。しかし、そのための氷の手配すらままならない。女川漁港、そして青木さんの再出発は、そんな悪条件の中でスタートが切られたのだった。消費者とつながることで、やるべきことが見えてくる
都市部の人たちと直接つながることで将来へ
青木さんは忙しい。女川漁港を拠点に活動しているが、そこに行けば必ず会えるわけではない。なぜなら、
「震災後の5月頃に、水産関連の宣伝をするようにと声が掛かって、親しい先輩だったから断ることもできなくて。それ以後、“女川の宣伝担当”みたいな感じでいろいろな所に行かせてもらっています。出向いた先でいろんな人と会って、話をするうちに関わりが深まって、この1年でたくさんの知り合いができました」という状況だからだ。
横浜市金沢区の人たちとの関わりはとくに深いという。
5月に女川で開催された福幸市(ふっこういち)を支援してもらったのがきっかけで、頻繁に行き来するようになった。2012年の3月には、横浜からバスを仕立てて女川でイベントを開催したりもした。外とつながることで、女川の将来をどう描けばいいのかも見えてきた。
「風評被害の問題は根が深い。漁師さんの中にも悲観的になっている人が少なくありませんでした。でも、沿岸の海産物や女川の加工品を持って行って、外の人たちに食べてもらうと、『おいしい』とみんなが言ってくれるんです。直接会って、面と向かって言ってもらえると、希望も見えてきますし、やらなきゃいけないという気持ちにもなるんです」話は前後するが、昨年の漁港再開当初、協力してくれる漁師さんは1軒しかなかったが、その数は徐々に増えて行った。自分たちが獲った魚が、買った人に喜んでもらえると分かったことで、仕事への希望が見えて来たのかもしれない。
これまで“女川の宣伝担当”の役はもっぱら青木さんが果たしてきたが、今年の3月には漁師さんたちが山口県まで行って、自分たちが獲った魚を自分たちで売るという“快挙”まで実現した。「頑固な漁師さんたちが行きたいと自分から言ってくれたんです。しかも、遠く山口まで。これはすごいことですよ」
漁港の復旧はまだ遠い。大型船を係留できる場所が1隻分しかないせいで、獲れているのに水揚げできなかったり、風除けに避難してきた漁船の停泊場所がないせいで、漁船の足が遠のいてしまったり。それでも女川漁港が少しずつ前に進んでいるのは間違いないだろう。
取材・構成:井上良太