沖縄戦を学ぶ休日(1)

少し前に、期限が迫っていたマイルを使って沖縄本島に行ってきました。

今回は土曜の朝に出て、日曜の午後に帰ってくるという1泊2日の旅。時間に限りがあるため、空港に近いエリアを中心に巡ります。街歩きをしたり、ひたすらビーチを眺めたりと、移動は最小限ながらも南国気分を楽しめます。

現在は国内有数のリゾート地ですが、一方で沖縄は太平洋戦争において最後の地上戦が行われた場所でもあります。

1945年3月23日、米軍は約54万人の兵士で構成された大軍と艦艇によって沖縄を包囲し、本島に最も近い慶良間諸島を作戦基地として占領すると、4月1日には本島の中部、読谷・北谷海岸に上陸。その後は島の北部、そして首里城の地下に作られた旧日本軍(第32軍)の司令部壕がある南へと侵攻。「鉄の暴風」と呼ばれたほどの圧倒的な軍事力によって、本島を制圧していきました。そこには各地で起きた激戦、現地住民や島外の人々も巻き込んだ数多くの悲劇があります。

今回巡った空港から車で30分圏内のエリアには、戦争の跡が残されています。

旧海軍司令部壕

那覇空港からは車で20分ほど。道が空いていれば、もっと早く着けるかもしれません。空港から内陸に向かってしばらく走っていくと高台にある大きな遊具が見えてきます。

遊具について下調べをしていましたが、予想以上の大きさです。これほど長いローラースライダーは珍しい?これなら同行した子どもが喜んでくれるだろうと思いましたが、この日は点検期間でした(残念)・・・。

ただ、その他の遊具は問題なく遊べるので、妻に子どもを見てもらい、自分はというと、公園の上にある施設へと向かいます。

ビジターセンター入り口。ガラス張りのホールに戦時中の写真パネル等が展示されている

公園の頂上につきました。

ここは旧海軍の司令部があった場所。小禄飛行場(現:那覇空港)の防衛を目的としてこの場所に配置されました。見晴らしの良さは今も変わず。首里城や南部の市街地、そして東シナ海(那覇空港方面)を一望できます。

旧海軍司令部壕ビジターセンター・資料館

現在は海軍戦没者の慰霊塔、展示施設があるビジターセンターとあわせて、持久戦に備えられるために掘られた大規模の司令部壕の一部が一般公開されています。

約11万人で構成された旧日本軍(第32軍)の中には約1万人の海軍部隊も含まれていたとされており、司令部壕を中心に周辺にはたくさんの壕が作られたのだそうです。

この施設は入り口が2階にあり、階段を降りて1階の展示室、その先に続く地下壕が有料という形になっています。

受付を済ませて、展示室へ。
ここでは正面にある人物の言葉から始まります。海軍部隊の司令官だった大田實少将(当時)が命を絶つ直前に海軍の上層部に送った電文の一部。

そして、辞世の句「大君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり」を残し、司令部壕の中で自決しました。

電文の最後にある

「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ(沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。)」

が切り取られることが多くありますが、全文で読むことで戦争が悲惨さを改めて感じます。「悲惨な歴史」という言葉で括ること自体間違っているのかもしれません。

当時の県知事(島田叡氏)の代わりであるという前置きはありますが、自分の命を絶つ直前という状況下に送った県民を思うこの言葉をどのように受け止めるか。そして、この言葉受け取った沖縄県民の気持ちは?様々な視点から考えさせられます。

そこには綺麗事などなく、ただただ現実と向き合うことも必要なのだと思いました。

展示室の奥へ進んでいくと沖縄戦の経緯、被害の全容を示すパネルが展示されています。

この写真からも当時の異常さが伝わってきます。今はどこまでも広がる青くてきれいな海が見られますが、当時は海岸付近の海を埋め尽くすほどの艦艇が押し寄せてきたという状況。記録によると全1,500隻近くということですが、この写真は一部であるとすると、実際はもっと凄まじい光景だったのか。と想像します。

館内には司令部壕の中で発見された遺品も展示されています。炊事で使われたものや医療用の薬品や注射器など。当時、この地下壕では4,000人の海軍兵が収容されていたのだそうです。

医療用の薬品においては、本土からの供給が途絶えたという記録も残されています。(地下壕の中に医療室があります)

続く

同じく壕内で見つかった軍服や銃器、槍も展示されている