ジュゴンの映画を見たのをきっかけに、座り込みテントで学んだ非暴力のこと、沖縄の地で起きた地上戦を考える行きあ旅ばっ旅。
沖縄はリゾート地として人気が高いけれど、この地はたった70年ほど前に20万人もの多くの命が亡くなった場所であることも観光やリフレッシュのほんの少しの合間でいいので考えてもらえるきっかけをつくりたい。
この沖縄戦を知ってそして後世に痛ましい戦争の悲劇を繰り返してはならないというその思いに立ち、後世に生きる人たちが無残な死を繰り返さない世界にしたい。
多くの子どもたちが亡くなったチビチリガマ
インターネットで調べて「チビチリガマ」を知りました。チビチリガマは多くの沖縄県民が第二次世界大戦で集団自決した戦争遺跡です。
大浦湾と辺野古基地を回ってやっとチビチリガマを訪れました。インターネットにはハブがいるから?チビチリガマに行くには防備が必要とのこと・・・ハブとか虫とか怖い…でも行くと決めたのだから行きます。
私がコンビニ買った防備とは
・カッパ(透明の)
・懐中電灯
・虫よけ
・軍手
上記を装着して現場に向かいます。ハブがいるかもしれないことにキョドって写真を取り忘れましたがリゾート地の沖縄で完全武装のオバサンは見た目がかなり怪しくておかしな人でした。。
波平1153
チビチリガマ
勇気を持って恐る恐る足を進めます。早速ハブ注意の看板・・・ハブに注意ってどうしたらいいの???進むしかない!
ハブを怖がっている間に多くの方が亡くなったガマ(壕)に近づいて行きます。
「チビチリガマの歌」 作曲 小室等/作詞 金城実
イクサユヌアワリ
ムヌガタティタボリ
(戦争の悲劇を 語って聞かせて下さい)
ワラビウマガユーニ
カタティタボリ
(子や孫の世代まで どうか 語り継いで下さい)
ハンザチビチリヤ
ワシタウチナーユヌ
(波平のチビチリガマは 私たちの沖縄に生きる者の)
ククルチムヤマチ
ナチュサウチナー
(心肝を苦しめています 沖縄は泣いています)
ナチュナチビチリヨ
ミルクユニガティ
(泣くなチビチリよ 弥勒の世 平和の世を願って)
ムヌシラシドゥクル
チビチリガマ
(戦争の哀れを世に知らせる 聖地になってください チビチリガマよ)
引用元:第74回:泣くなチビチリガマよ~クリスタルナハトにはさせない~(三上智恵) | マガジン9
この場所に立ち、ハブが怖いとか脳の中からすっと消えて、ここは特別の場所であること、空気の流れや時間の流れが違うように感じました。時が止まっているような・・・止まった時の中で、その日の惨劇が脳裏を走ります。
碑文
チビチリガマから世界へ平和の祈りを
一九四五年四月一日、米軍はこの読谷村の西海岸から沖縄本島へ上陸した。それは、住民を巻き込んだ悲惨な沖縄戦・地上戦であった。その日のうちに、米兵はチビチリガマ一帯に迫っていた。翌二日、チビチリガマへ避難していた住民約一四〇名中、八十三名が「集団自決」をした。尊い命を喪った。
あれから三十八年後、やっと真相が明らかになった。その結果、八十三名のうち約六割が十八歳以下の子供たちであった。その他、二名が米兵の手によって犠牲になった。
「集団自決」とは、「国家のために命を捧げよ」「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ。」といった皇民化教育、軍国主義教育による強制された死のことである。
遺族は、チビチリガマから世界へ平和の祈りを、と「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」を彫刻家金城實氏と住民の協力のもとに制作した。しかし、像の完成から七ヵ月後、十一月八日、心なき者らにより像は無残にも破壊された。住民は怒り、遺族は嘆いた。
全国の平和を願う人々はそのことを憤り、励ましと多大なカンパを寄せた。あれから七年余が経過し、平和の像の再建が実現した。チビチリガマの犠牲者への追悼と平和を愛するすべての人々の思いを込め、沖縄戦終結五〇周年にあたり、ふたたび国家の名において戦争への道を歩まさないことを決意し、ここにこの碑を建立する。
アメリカ兵が上陸し投降を促されるも「生きて虜囚の辱めを受けず」という教えのもと、捕まれば無残に殺されると捕虜になることを恐れガマにいた住民全員が混乱しパニックになりました。
包丁で我が子を殺す母親、毒の注射を打つ人や、布団を焼いて窒息死する人…。
集団自決した83名のうち6割が18才以下の子ども…家族同士が、子ども同士がお互いを殺し合う…目をつむり想像した。地獄絵図だ…。ただ震えるような身のよだつとかではなく、悔しい気持ちと怒りが溢れ出てた。なぜ子どもたちが殺し合わなくてはいけなかったのか!愛しい我が子をなぜ殺さなくてはならないのか!!!
この地で起きたことを、この歴史を、多くの人に伝え広めなくてはならない。
この場所で未来ある子どもたちが、生まれた時代や生まれた場所が違うだけで、無残にも殺し合わなくてはならなかった事実。たった70年前の事実。わたしたちと何ら変わらない生きた人間がこんなにも無残に人生を終えたことを…。
私たち今を生きる者が未来を生きる者に伝えゆく責務、風化させてはならない。
見学者及びボランティアでの案内者へ
これから先は、墓となっていますので立ち入りを禁止します。ガマの中には私達、肉親の骨が多数残っています。皆様が、ガマにはいって私達の肉親を踏み潰していることを私達は、我慢できません。
参拝は、再建しましたチビチリガマ世代を結ぶ平和の像でお願いします。
引用元:チビチリガマ遺族会
戦後70年の地平から「2つのガマから見えるものは」
チビチリガマと明暗を分けた、奇跡のシムクガマ
一方シムクガマもチビチリガマ同様にアメリカ兵に投降を求められた。「生きて捕虜になるな」という教えられた住民はチビチリガマ同様にパニックになるもハワイ帰りの住民がパニックにった住民に投降を説得し全員助かったのです。
1キロも離れていないチビチリガマとシムクガマの違いを私たちはどう考え、どう行動すればいいのか。
ひとりでも多くの国民が戦争を歴史の一部ととらえず、わずか70年前出来事、戦争という事実に目を向け、考えて、自分ができる小さなアクションを始めて欲しい。その小さな変化がきっと未来を変化させるはずだ。