遺留品返還会場にて(1)

遺留品の展示・返還を行っている陸前高田のコミュニティホールに行った。被災していない人間が行くべき場所ではないとは心得てはいるものの、どうしても見てみたくて、「見学させてもらえませんか」と丁重にお願いして入れてもらおうと心に決めて行ってみた。釜石から陸前高田まで車を運転しながら、心の中でお願いの言葉を何度も繰り返し予行演習した。

遺留品という言葉はどうも他人事のように聞こえてしまうが、震災前の思い出とともに、震災の記憶がそのままの形、むき出しの形で陳列されるわけだ。当然、会議室かどこかクローズドな部屋で展示されているものだと思っていたのだが、建物に入るや面食らってしまった。入口の自動ドアが開いてすぐのエントランスホールが会場だったからだ。

太鼓がある。蛇皮線がある。位牌がある。ランドセルがある。上棟式などと書き込まれたお札がある。七組二十客揃えと箱書きされた立派な食器のセットがある。カメラ、スポーツ用品、トロフィーもある。転勤する部活の顧問の先生に向けて書かれたメッセージの色紙もある。何台ものパソコンが持ち込まれているのは写真を検索するためのものだ。

見れば誰のものだかすぐに分かるようなものも少なくない。それでも震災から7年近くが経過するなか、なおこれだけの思い出の品が取り残されている。それが意味するのは何か。

胸が詰まる思いだった。そのとき、パソコンが置かれたテーブルから、「あった!」という声がした。ちらっと見ると、横顔の男性は知人だった。知り合いではあるが、気が引けて気づかぬ振りをしていたら、向こうから声をかけてくれた。手招きして私を呼び寄せて、パソコンの画面を見せてもくれた。

「何度も見に来ているんだけど、何万枚もあるからね、なかなか全部を見ることはできないんだ。まだ半分くらいかな。だから、あれから7年近く経っているのに、今日みたいに家族や友だちの写真にばったり出会えることもあるんだな」

ノートパソコンのモニタには、何年も前の五年祭(5年に一度開催される盛大な祭り)の写真が映っていた。どれも津波を被った後に修復されたものだ。画像の傷みが被害の大きさを示している。全体的に変色しているものもある。画面の半分以上が失われた画像もある。そんな何万枚かのなかに、彼の姉妹と近所の友人の姿があったのだ。

「みんな若いなぁ。どれくらい前の写真なんだろうなぁ」

彼はうれしそうに何度も繰り返した。

陸前高田での遺留品や写真の返還事業は2017年で終了となる。コミュニティホールではこれが最後で、仙台や東京などで展示・返還が行われた後どうなるかは未定だと、事業を委託された団体のスタッフは話していた。

瓦礫の中から救い上げられ、持ち主の手に戻る日を待ち続けてきた遺留品や修復された写真データの数々。まちなかの瓦礫は99.9%以上なくなり、かつて瓦礫に埋もれた場所では新しいまちの建設が急ピッチで進む。しかし、まちの外見は変わっても、瓦礫に埋もれていた思い出は、まだ多く残されたままだ。バットが、位牌が、ランドセルが、そして何万枚もの写真データが…。

震災直後の状況は、かたちを変えて今も続いている。