神戸でとあるイベントに参加した。アートというものの本源にふれたように感じられるイベントだった。その夜、アーティストさんや大学の先生たちと会食。その席も愉快なものだったが、翌日、ふたたびイベント会場にて。
「あの後、四人でカラオケ行ったやけど、Bちゃんがどうも煮え切らんいうか、本気出して歌わんもんやから、もっと突き抜けなあかんって話になって、もうみんなしてBちゃんのこと説教し続けるみたいな格好になってね」
と、会食後のカラオケ屋でのことを話しはじめたのはアーティストのAさん。居合わせたYさん(大学の先生)と三人で立ち話になった。Yさんが、
「それって、照れくさかったんちゃうの。ホントはうまく歌えるのに、ついついいい子ちゃんぶって歌う人っておるやん」
なるほど、Bちゃんは見た目からしてもいかにもアーティストって感じのおしゃれさんなのだが、ちょっと遠慮がちなところも感じられる。真剣な面持ちで直立不動でマイクを握りしめている姿が目に浮かんだ。
「そうなんやろうけど、でもせっかくカラオケ行ったんやから、思い切りハジけな面白くないやん。そのうちだんだん、歌のことやなくて作品に対する姿勢みたいな話にもなってな。いやぁ、ちょっと言い過ぎたけど、やっぱハジけなあかん。突き抜けなあかんと思うんよ」
「たしかにね、突き抜けるって大切よね。気持ちとか覚悟って作品にも出るからねぇ」
「そうなんよ。いいんやけど、なんかもうひとつって感じ、あるやん? ほんのちょっとのことなんかもしれんけど」
Bちゃんの作品がちょうど目の前にあった。おしゃれである。「わ、これステキ!」と言って手に取ってもらえそうなアクセサリーも展示販売されていた。だが、言われてみればたしかに小綺麗ではあるが、いや小綺麗であるがゆえに、それ以上何かを訴えてくるというものはない。
「ほんとBちゃんが作るのは可愛いくてステキなんやけど、そこに停まっていていいのかってことなんよね。私だけやなくて、CちゃんもZさんも、みんなも同じように言ってたんやけどね。もちろんBちゃんも分かってるんよね、自分が作ってるのが中途半端だってこと」
カラオケが元で、作品とか生き様の話に発展してしまうアーティストの会話の恐さを感じながらも引き込まれた。
「Bちゃんがね、どうしたら中途半端じゃなくなれるでしょうかって聞いてきたから、うーんってちょっと考えてからね、中途半端やと思うんやったら一回全部捨ててみたらいいやん。捨てたら本当のものが出てくるかもしれんって言うたの」
「うわ、それキツい。なかなか捨てられんよね、中途半端や言うても、それなりに認められてもいるわけだからねぇ。でも捨てなあかん、突き抜けるには中途半端なものはうっちゃらなきゃならん、かぁ。その話、Bちゃんを跳び越えて、自分の胸にグサッと来たわぁ」
とYさん。そして私の方を見て「ね、そう思うやろ?」
彼女たちのめちゃくちゃ速いマシンガントークについていくだけでも大変だったが、周回遅れで自分の胸にもグサッと来た。
突き抜けなあかん。中途半端なんやったら、一度思い切って捨ててみた方がいい。そしたらそこから本当のものが芽を出すかもしれない。
神戸から広島へ向かう電車のなかでも、入院中のベッドでも、東北に戻ってきてから今日にいたるまでも、この時の会話がぐるぐる回り続けている。そしていつしか、なぜだか分からないが、つきぬけるという言葉が一休宗純のイメージとひとつになった。
「バクハツだ!」の岡本太郎ではなく、いわんや平山郁夫先生なんかではありえず、むしろ横尾忠則とか会田誠、あるいはデューラーの版画を数学的に検証した榎本和子といった人々の遠方に焦点する存在としての一休宗純。たしかにAさんの作品には、こけしであれぬいぐるみであれ、つきぬけている何かがある。クレープが嫌いなクレープ屋(しかしそのクレープは近所の小学生やおっちゃんおばちゃん、工場のOLさんたちまで魅了する。美味いのだ)という生業の面でもまた。
竹篦、掌握に帰し、仏魔倶に親しまず。
引用元:『一休宗純像』一休宗純賛(奈良国立博物館)
竹のへらは魔物を払うのみならず、仏をも寄せ付けないと、自分の肖像画に自ら賛を書いた一休。
身の丈よりも長い朱塗りの鞘の大太刀を持って堺の町を闊歩した一休。
骸骨を竹竿の先につけて、正月の町をふれて回った一休の姿。
門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし
引用元:一休宗純『狂雲集』
坊主の話が抹香臭いというのなら、会田誠の『紐育空爆之図』でもいい。『スペース・ウンコ』でも、小説『青春と変態』でもいい。
あなたはつきぬけていますか?