【シリーズ・この人に聞く!第33回】読売巨人軍投手コーチ 野球史に残る伝説のピッチャー 斎藤雅樹さん

日本記録の11試合連続完投勝利、3年連続開幕戦完封勝利など数々の偉業をやってのけた球界のエース。長男19歳、次男17歳。そして末っ子三男はまだ4歳という子育て真っ最中の斎藤雅樹コーチにインタビューしました。

斎藤 雅樹(さいとう まさき)

1965年2月東京都足立区生まれ。
埼玉県川口市川口北中→市立川口高。1983年から2001年まで投手として読売巨人軍にて活躍。高校時代は、投手で4番を打ち、82年夏県予選決勝まで進むが、熊谷高に敗退して甲子園には出場できなかった。同年ドラフト1位で巨人に入団。85年12勝8敗7S、防御率2.96をマーク。89年11試合連続完投勝利の日本記録をつくり、20勝7敗、防御率1.62で最多勝、最優秀防御率の2冠を獲得、沢村賞に選ばれる。
90年は開幕投手となり、2年連続20勝(5敗)をマーク、再び2冠を獲得して、MVPに選ばれた。
92年に3度目の最多勝を獲得。95年に18勝でセリーグ初の4度目の最多勝を獲得。
96年は最多勝と防御率1位の2冠を獲得し、2年連続3回目の沢村賞に選ばれた。
97年には6度目の開幕投手をつとめた。02年から2年間と、06年から巨人軍投手コーチに就任。今季は二軍担当として、若手育成に力を注いでいる。

言い訳をする選手は大成しない

――野球選手の頃から斎藤さんのことは応援していました。現役引退されてコーチになられてからずいぶんたちます。選手時代と比べコーチになってから良い面や難しい面いろいろあると思いますがいかがですか?

コーチになって5年目になります。選手時代は自分のことだけでよかったのですが、コーチになると人数が多いためすべて把握するのは難しいですが、全員に目を配らないとならないのが大変なところです。今年ぼくは二軍のコーチですが、一軍コーチのときは毎日ゲームに追われていますから、いかにいい精神状態で試合に送り出すかを考えてあげればよかった。でも二軍選手の多くはまだ年齢的にも若い。一番若い選手は19歳で、うちの長男と同じ歳の選手ですから。そういう若い選手と野球をやるのも、初めてです。野球だけでなく私生活の面も気にしないとならないです。

セリーグ初の4度目の最多勝を獲得した95年頃。甲子園球場にて。翌年は最多勝と防御率1位の2冠を獲得し、2年連続3回目の沢村賞に選出。

――コーチとして選手のモラルを育てる役目もおありなんですね。ところで斎藤さんには、もうそんなに大きなお子さんがいらっしゃるんですね。

はい。長男が19歳大学1年、次男が17歳高校2年、そして末っ子の三男が幼稚園年少組4歳です。末っ子は孫みたいな感じでかわいいいですよ!

――末っ子さんがまだかわいい時代で。年の離れた兄弟は家族のアイドル的存在ですよね。ところで二軍といえどプロ野球、しかもジャイアンツでプレーできるのは、ほんの一握りの選手です。二軍から上がれる選手に共通項はありますか。

いくら練習しても全員が上がれるわけではない。でも誰にでもチャンスはある。力の世界ですから、力のない人はレベルを上げるわけです。でも、一軍内のレベルに差はありませんが、二軍内のレベルはまちまちです。それこそ二軍のゲームに出られない選手から、もうすぐ一軍へ上がれる選手までいろいろ。コーチとしてその差を少しでも縮めてあげたいと思います。ぼくは25年間プロ野球選手として生きてきましたが、言い訳をする選手は大成しないものだと思います。ダメなものはダメで、「すみません」から始まる。何か注意されると、ああだこうだと言い訳をする選手で、いい選手はいませんでした。自分のダメな点をきちんと認めて受け入れられる素直な心をもっていること。それがいい選手の第一条件ですね。

――それはどんな世界でも同じかもしれませんね。斎藤さんは11試合連続完投勝利、3年連続開幕戦完封勝利など、球界史に残る偉業を達成されていらっしゃいます。一方で「ノミの心臓」と言われ、良い球を持っているのになかなか結果が出ないという時期も長かったと伺っています。そこから一転、球界を代表する強い気持ちを持ったピッチャーに変わったきっかけというのは何でしたか?

プロに入って2年目19歳で一軍デビューを飾ったものの、気が弱いとか自信をもてと周りに言われ続けました。でも、自分自身で「気が弱いな」と思ったことは一度もなかった。結果がでないうちは、周りを納得させることはできません。自信を持てと言われても、いい結果を出さないと自信はつかないんです。小さな成功を積み重ねることで、僕は自信にしてきました。二軍に行っても3か月で9勝しましたし、いつも「自分はできる!」と思っていましたから。

小学5年生から入部したリトルリーグ

――お話しを伺っていると、まさに毎日が闘いという感じです。好きこそものの上手なれで、野球は小さな頃からプレーされていらしたんですか。

小学5年生までは町のソフトボールチームに所属していましたが、5年生から川口レッドボーイズというリトルリーグに入部しました。一応、入団テストがあってボールを投げたり、50メートル走を走ったり。足は学年一速かったですし、一生懸命やりましたけれども。入団テストを受けることになったのは、母が勝手に申し込みをしていたんですね。僕はどちらかといえば人見知りで引っ込み思案なタイプでしたから、母の勧めで背中を押してもらったという感じです。

06年から巨人軍投手コーチに就任。今季は二軍担当として、若手育成に力を注いでいる。

――お母様は先見の明がおありでしたね。リトルリーグでは大活躍でした?

小5から入部するのは割と遅くて、同学年でも前からいる人はすごく先輩に見えました。5年生時代は二軍として大した活躍もしていなかったですが、6年生になると自動的に一軍となった。僕らの代にはたまたまキャッチャーがいなかったので、僕がキャッチャーをすることになった。ピッチャーは3人くらいいて、とても強いチームで全国大会まで行きました。

引っ込み思案で人見知りな性格だったが、ひときわ俊足の少年であった。

――土日は野球漬けで、あまり親の手を煩わせるようなお子さんではなかった?

運動が得意で活発でしたが、どこにでもいる普通の子だったと思います。ただ、母にものすごく怒られたような記憶はないですね。

――習い事は野球の他に何か?

野球をやっていた頃、そろばん塾にも通っていました。5年生で2級取得でしたから、今でも計算は得意なほうです。スコアとかつけるのも結構好きですね。中学3年の夏まで野球部でしたが、その後受験のため夏季講習へ通ったら、すごく勉強がよくわかったんです。それまで、いかに何も勉強してこなかったかというのもあるんですが(笑)。わざわざ当時、川口から王子まで週に数回、塾通いをしていました。リトルリーグで一緒だった友達と中学はバラバラになったけれど、高校でまた野球やろうよと話して市立川口高校を目指そうと。僕の成績が今一つでしたので、中3の夏以降、俄然集中して頑張りました。

――野球選手として、お、これはいけるかも。と思われたのは、いつ頃でしたか?

高校3年生の時にプロ球団のスカウトが来たときです。早実の荒木大輔が同学年で、何かがきっかけで練習試合をしたことがありまして。夏の決勝で負けて甲子園には行けませんでしたが、絶対プロに行ってやるぞ!と決意していました。ある社会人チームからも熱心に誘いを受けましたが、野球をするならプロでしたいと。大学という選択は、勉強があまり好きでなかった僕にはありませんでしたし、それに大学はすぐに鉄拳が飛んでくるだとか(笑)。市立川口高校はみんな仲が良かったので。運よく巨人から指名をいただけて、本当にうれしかったです。

スポーツでなくても好きなことを続けて

――実力はもちろんですが、幼い頃から憧れの夢を実現されました。

4年間頑張ってダメだったら仕方ないから、その時考えようと。入団当初から一軍で活躍できるなんて思っていませんでしたから。当時は江川卓さん、西本聖さんが投手陣を支えていました。憧れて見ていた人たちと一緒に野球ができるくらいレベルアップしないといけませんから、4年という期間を決めた。

小学校入学式当日の一枚。シャイでありながらキリッとした表情から今の面影が感じられる。

――野球人生で数々のことを学ばれて、斎藤さんの息子さんにはどのような教育方針がおありですか?

ほとんど家にいないことが多かったので妻任せですね(笑)。僕が20勝した時に長男が生まれ、2年後に次男が誕生。たまに帰るとやさしいことばかり言って何でも買ってあげるような。ただ、僕が野球をしている姿は小さな頃から見てきたので、上の二人とも小学1年生から少年野球チームに入ってプレーしていました。でも二人とも親父を超えられないと思ったのか、野球は中学まででした。高校は自分の好きな道へ転向しました。

小学5年生で入団したリトルリーグ。当時はそろばんも2級で計算も得意であった。

――わが子をプロ野球選手にしたい!と思いませんでしたか?

僕がガンガン教えこんでいたら違ったかもしれませんが、入部したチームにお任せしていたので。キャッチボールすら一緒にする時間がありませんでしたから。でも、数少ないオフの時は試合の応援に行って、ものすごく大きな声で興奮したりしていましたよ。見に行ってあげるとうれしいものですよね。ただ、本人が野球をやりたい気持ち半分、やりたくない気持ち半分だった時に、押しつけるのはよくないなと思って、「自分の思うようにしたらいいんだぞ」と言ってあげました。

――コーチとしての斎藤さんも、お父さんとしての斎藤さんも、どちらも同じなんですね。鉄拳をふるうようなことはなくて、見守るやさしさがあるというか。

基本的に同じですね。でも怒ると怖いと思っていますよ。俺を怒らせたら怖いんだと。今まだ末っ子だけは自由に遊んでいますから、和みますね。

――それでは習い事をさせている親御さんにメッセージをお願いします。

その子が好きなことを見つけられるのはすごく幸せなことです。僕らの子ども時代は、そろばんか習字、ピアノくらいしか習い事ってありませんでしたが、今は選択肢もたくさんあります。その子がやりたがっているものをやらせてあげるのが、いいのではないかと。僕はリトルリーグで監督やコーチに教わったことがたくさんあります。続けることの大切さとか、土日の練習だけでなくて、朝に走り込みをすること、スコアブックのつけかた、人間関係や挨拶など。僕の基礎はすべてリトルリーグにあります。何か打ち込めるものがあるといいですよね。それがスポーツでなくたっていいんです。好きなことってなかなか見つからないのかもしれませんけれど、何かを続けていくことって大切です。

編集後記

――きょうは本当にありがとうございました!
私は野球にあまり詳しくありませんが、斎藤さんが名ピッチャーとして活躍されている頃、一球一球にドキドキしながらジャイアンツを応援していたのを覚えています。さほど変わらぬ同世代なのに、マウンドで勝負している斎藤さんがずいぶん大人びて見えたものです。でも、あれから20年近く過ぎても若々しく温厚なお人柄はあの頃のまま。奥様は川口高校野球部のマネージャーを務めていらしたとうかがって、斎藤さんの幸せオーラはきっとご家族に恵まれていらっしゃるのだなと強く感じました。4歳の末っ子さんが野球の人生を選択されるのか?! これからが楽しみですね。

取材・文/マザール あべみちこ

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