息子へ。東北からの手紙(2016年2月11日)何もないけど何かがある

2月11日、東京・湯島で開催されたロシナンテスのイベントで、じわんと響くことばを聞いた。念のために解説しておくと、ロシナンテスはアフリカのスーダンでの医療支援活動を行っているNGO/NPOで、東北でも仮設住宅の高齢者の健康を応援する活動などを続けてきた。いまロシナンテスはスーダンでの医療活動を一歩前に進めるために、3カ所の診療所をつくろうとしている。スーダンは日本との国交がほぼ途絶えた状態なので、政府からの支援は見込めない。だから民間からの援助を集めなければならない。そのためにどうすればいいか、参加者みんなで知恵を出そうというのがこのイベントの趣旨だった。

診療所をつくるというと、お医者さんがいて、病気になった人の治療をする場所を充実させようという話のように聞こえるだろう。もちろんそれはそうなのだが、ロシナンテスが目指しているのはそれだけではない。

ロシナンテス代表の川原尚行さんは医師である。しかし彼がスーダンで行っているのは、病気の人を診察したり治療したりという狭い意味での医療活動に限らない。たとえば井戸を掘り集落まで水道を引く。病気の大きな原因のひとつが汚れた水である以上、病気の治療以前に、衛生的な水環境をつくることの方がより根源的な解決策だからだ。

汚れた水が健康に良くないということを学んでもらうことも必要だ。またスーダンでは出産の際に亡くなったり病気になったりする女性やこどもも多い。出産や育児についての基本的な知識を広めていくことも欠かせない。

ところが学校がない村が多い。本を読んで勉強しようにも字が読めない。となると、教育も広い意味での医療活動ということになる。ロシナンテスがスーダンに3カ所つくろうとしている診療所とは、地域の人たちの医療の場であるのみならず、教育の場であり、衛生や健康、さらに出産や育児についての専門知識を学んで、地域医療を担うスタッフ(たとえば看護師など)を地元の人々の中で育てていく場所でもある。

医師・川原尚行はひとりしかいない。ひとりでスーダンの僻村全部を見て回ることなど無理な相談だ。だから地元の人たちと協力していくための礎として、拠点づくりを進めているわけだ。

この辺りを押さえてもらった上で、じわんと響いた言葉について話そう。

スーダンでは、たとえば巡回診療でも、ある村に行って活動するときには、まず集落の長のところに挨拶に行かなければならない。「医者が来てくれたからありがたい」という話ですぐに診療開始とはならないのだ。村の長に対面し、村の人々と会い、食事をし、ともに時間を過ごして信頼関係が築けた上ででなければ、何事もはじまらないのだという。

「スーダンはイスラムの国なのでラマダン、日の出から日没までいっさい口にしないという月があるんです。そんなときに訪ねた集落では、私も日中は食べ物も飲み物も何も口にしないことになります。そして日没が来てから、集落のひとたちと一緒に食事をするんです。そんなときに思うんです。何もないけれどここには何かがあるということを。本当に何もないところなんです。何か特別なことをしえいるわけでもない。ただ日中断食して、その後にみんなで食事をする。そうして過ごす中に何かがあると感じるんです」

もしかしたら川原さんの言葉自体が、「何もないけれど何かがある」ということそのものかもしれない。

何もない。でも何かがある。

じわんと響いた。そしてじーんと沁みてきた。その言葉から何かが少しずつ湧き出し続けているような不思議な感じがする。

たとえば東北で虎舞に参加させてもらった後の直会(なおらい)。大人たちがビールを飲みながらあれこれおしゃべりをしている隣で、こどもたちが小学生も中学生も一緒になって遊んでいる。座布団を投げたり、体で床をスライディングしたり、何ということはない遊び。でもそこにいるこどもたちが、その場でつくり出した遊び。そんな様子を横に見ながら、大人たちはビールを飲みながらおしゃべりしている。そんなときに、同じようなことを感じる。なんかいいなぁと。何があるということではない。でも何かがあると感じる時間は、時々自分も経験することがあった。

どうして何もないのに、なんかいいと思うんだろう。何かがあると感じるんだろう。

何もないのに何かがあると思うのは、ことばとか答えとかにはまだなっていないけれど、何か大切なことがあるということだけは感じとっているということなんだろう。

都会で生活していると、その逆に「何かがあるから何かある」ということばかりだ。たとえば何か課題があったとすると、選択すべき解決プロセスは実はすでに何通りかあって、導き出される答えも自明であったりする。調べればわかる世界だ。少々話は飛ぶが、会社社会で何かしようとするときには「企画」というものを立てることが多い。ところがこれこそ「何かがあるから何かある」の類の考え方だったりするわけだ。やる前からやったらどうなるという答えを準備することになる。やってみなくちゃ分からないのに、やったらこうなりますという目論見が必要になったりする。すると、過去の事例を参照したり、そこから類推しなければならなくなる。そればかりでなく、参照した過去の事例に合わせて企画を立てるといった逆立ちしたことにもなりかねない。ひらめいたときには輝いていたアイデアがだんだん色あせてしぼんでいったりもする。何もないけど何かがあるという感覚とは真反対だ。

さらに話は飛んでしまうけれど、一昨年亡くなった赤瀬川原平さんとその仲間、南伸坊さんたちがやはり同じような話をしていたことを思い出した。

「でもね、絵描きは絵を描く前に企画書なんか書かないんですよ」と赤瀬川さん。

「何でもかんでも企画、企画ってやってると面白くなくなるんですよね。でも最近の趨勢で行くとそのうち絵描きも企画書を書くようになるかもしれませんよ。いまでも、ちょっとそれに近いような人もいますからね」と南さん。

そんな会話を思い出して話がつながった。

「何もないけど何かがある」は、間違いなく何か新しいもの、経験したことのないものを孕んでいることに対して感じることなのだ。「それは何々ですね」と指摘できるようなことはすでに知っていること。まだ知らないことだから「何かがある」としか言えない。絵描きが絵を描くときに企画書を書かないのは、まだ目の前にあるわけではないが、これからつくり上げていく新しい何かに向き合っているからだ。

何もないけど何かがあるというのは、何だか分からないけど何か新しいものを生み出せる可能性がそこにあるということ。

なるほど。川原さんに、川原尚行というあり方に何かを感じてしまうのは、それこそそこに何かがあると感じるからなのだ。

その川原さんが、何もないけど何かがあると感じているのだから、スーダンで新しい何かが生まれようとしていることは間違いない。

川原さんがいるスーダンだけ? いやそんなことはないだろう。いろいろな場所で多くの人たちが、何もないけど何かがあると感じることを見詰めていけば、たくさんの灯りがさまざまな場所で輝き始めるはずだ。

夢想する。そんな灯りが宇宙ステーションから見た夜の地球の明かりみたいに、世界のあちこちに灯されていくことを。

何もないけど何かがあるという感覚は新しい何かを生み出す母胎となるもの。しかし、言葉にできない何かは言葉にできないだけに、簡単にこぼれ落ちてしまいかねない。だからこそ耳を澄まして、大切にしていきたいと思う。