スタンリー・キューブリックの「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」でピーター・セラーズが演じたマッド・サイエンティスト。人類史上最悪の製作物「核兵器」をつくったのは誰なのか、と問えば、心のどこかに、異常人格の科学者というイメージが湧いてきたりしないだろうか――。
ところで、原子爆弾には2つの種類があるのをご存知ですか。
左の通称「リトルボーイ」が広島に投下された原爆で、右の「ファットマン」は長崎に投下されたものです。
濃縮ウランとプルトニウムで原爆の仕組みはまったく異なる
広島に投下されたのはウランを使ったタイプ。こちらは爆弾の内部で濃縮ウランの小片を衝突させることで核分裂を起こす単純な構造(爆弾の中で濃縮ウランの塊を、別の塊に向けて火薬で発射するためガンタイプと呼ばれます)でしたが、ウランを濃縮するプロセスに高度な技術と膨大なエネルギーが必要でした。
これに対して、長崎に投下されたのは、原子炉で比較的容易に作ることができるプルトニウムを使った原爆です。このタイプはプルトニウムの入手は容易でも、球形の弾殻の内側に配置した爆薬を同時に爆発させて、球の中心でプルトニウムを圧縮して爆発させるという非常に精密な仕組み(爆縮:インプロージョン型)のものでした。
広島型であれば、濃縮ウランさえあればほぼ確実に核爆発を起こすことができると考えられていましたが、広島型は本当に実現できるのか開発者たちの間でも疑問視されていました。そのために行われたのがトリニティ実験、プルトニウム型原爆の核実験です。
ニューメキシコ州アラモゴード、1945年7月16日アメリカ山岳部標準時午前5時29分45秒、人類史上初めてとなる原子爆弾が炸裂しました。
核兵器の責任は誰に帰すべきか
「人類が手にしてはならなかったもの」として、科学者を非難する言葉がしばしば聞かれます。まさに、ピーター・セラーズが演じたマッド・サイエンティストのイメージです。しかし、この実験が行われる前には、開発にあたった科学者たちの間でも、どんな結果を招くのか分からなかったようです。「不発に終わる」という予想から「地球が滅亡する」という悲観的な予見まで、さまざまな予想が出され、賭けまで行われたと伝えられています。
しかし、実験が「成功」してしまった後には、同時期に行われていたポツダム会議(第二次大戦の戦後処理について米英ソによる会議)で、ソ連をけん制するカードとして使われ、日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言の発表とほぼ同時期に、日本への原爆投下命令が下されます。原爆は科学者たちの賭けの対象を離れ、強力な軍艦や戦車と同様に政治家たち(人民が選出したリーダー)の道具になったのです。
キュリー夫人に代表される多くの科学者が研究した放射能や核分裂は、核爆弾を生んだ原理であるとともに、原子力発電の原理でもあります。核分裂によって莫大なエネルギーが得られることが解明されることと、それを兵器として使うかどうかは別次元の話です。研究対象として放射能を見つめていた科学者たちだけに核開発の責任を負わせるのは無理があるでしょう。
もしかしたら、実用化に向けて開発が進められていく過程で、科学者たちには、あるいは原爆開発を止めるチャンスがあったかもしれません。可能性ということだけで考えれば、ガンタイプやインプロージョンタイプといった爆弾のしくみを発想し、実際に爆弾を製造した技術者たちにも、原爆開発を止めることはできたかもしれません。そして、原爆を他国を黙らせるための外交カードとして利用した政治家たちもまた、原爆開発を止めることは可能だったでしょう。
しかし、現実には人類を何十回も絶滅させるほどの核兵器が地球上に存在しています。核軍縮が進む中でも核廃絶の実は上がっていません。核兵器はどこかの誰か悪いヤツがつくったものだと考えれば気は楽かもしれませんが、人類がそれを保有しているという現実は、私たちにとって他人事ではないのです。
70年前、私たち人類は「手にすべきではなかった兵器」を実現してしまいました。そしてその後もそれを放棄することなく持ち続けています。この兵器をどうするのか。本当に廃絶することができるのか。
それは私たち自身の問題なのです。