4月22日付の読売新聞の社説には驚いた。
安倍首相が20日に放送されたBSフジの番組で、戦後70年の談話に関して、20年前の村山談話と同じ「侵略」や「心からのおわび」を使うのなら改めて談話を出す必要はないと語ったことを、まっこうから批判している。
ここ数年、政府の意向で記事をつくる半ば公報機関と揶揄されてきた読売が、だ。
社説
戦後70年談話 首相は「侵略」を避けたいのか
安倍首相は戦後70年談話で、先の大戦での「侵略」に一切言及しないつもりなのだろうか。
首相がBS番組で、戦後50年の村山談話に含まれる「侵略」や「お詫(わ)び」といった文言を、今夏に発表する70年談話に盛り込むことについて、否定的な考えを示した。
「同じことを言うなら、談話を出す必要がない」と語った。「(歴代内閣の)歴史認識を引き継ぐと言っている以上、もう一度書く必要はない」とも明言した。
村山談話は、日本が「植民地支配と侵略」によってアジア諸国などに「多大の損害と苦痛」を与えたことに、「痛切な反省」と「心からのお詫び」を表明した。
戦後60年の小泉談話も、こうした表現を踏襲している。
安倍首相には、10年ごとの節目を迎える度に侵略などへの謝罪を繰り返すパターンを、そろそろ脱却したい気持ちがあるのだろう。その問題意識は理解できる。
首相は70年談話について、先の大戦への反省を踏まえた日本の平和国家としての歩みや、今後の国際貢献などを強調する考えを示している。「未来志向」に力点を置くことに問題はなかろう。
しかし、戦後日本が侵略の非を認めたところから出発した、という歴史認識を抜きにして、この70年を総括することはできまい。
首相は一昨年4月、国会で「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない」と発言した。
侵略の定義について国際法上、様々な議論があるのは事実だが、少なくとも1931年の満州事変以降の旧日本軍の行動が侵略だったことは否定できない。
例えば、広辞苑は、侵略を「他国に侵入してその領土や財物を奪いとること」と定義し、多くの国民にも一定の共通理解がある。
談話が「侵略」に言及しないことは、その事実を消したがっているとの誤解を招かないか。
政治は、自己満足の産物であってはならない。
首相は一昨年12月、靖国神社を参拝したことで、中韓両国の反発だけでなく、米国の「失望」を招いた。その後、日本外交の立て直しのため、多大なエネルギーを要したことを忘れてはなるまい。
70年談話はもはや、首相ひとりのものではない。日本全体の立場を代表するものとして、国内外で受け止められている。
首相は、談話内容について、多くの人の意見に謙虚に耳を傾け、大局的な見地から賢明な選択をすることが求められよう。
2015年04月22日 01時29分
この社説の文中の「政治は、自己満足の産物であってはならない。」という言葉は、安倍総理が番組で語った「私の考え方がどう伝わっていくかが大切だ。」と言う言葉に対する痛烈な批判と受け取れる。
それはそうだ。世界に伝えるべきは「日本という国としての考え」であって、首相の個人的な思いなどではない。たとえ言葉の端であっても、このような表現が出てくること自体が驕りの現れだろう。
読売新聞の記事には客観的視点に立ったまっとうさが感じられる。しかし、なぜ訪米を控えたこの時期に「読売」が、というところが引っかかる。しかも社説だ。
放送が流された翌日の時事通信の「首相動静」によると、
午前10時28分から同11時まで、ケネディ駐日米大使。
とある。訪米前の調整なのだろうが、大使がわざわざというのは、重大な要件があったからに相違ない。読売の社説は、その後に出されている。これまた引っかかる。
読売社説についての「?」を外務省出身の孫崎享さんが、Twitterで解説していた。
22日読売社説安倍批判、???。「戦後70年談話 首相は侵略を避けたいのか。談話が侵略に言及しないことは、その事実を消したがっているとの誤解を招かないか。政治は、自己満足の産物であってはならない。政治は、自己満足の産物であってはならない」。読売が米国見解代弁なら理解容易。
なるほど、ストンと腑に落ちた。そういうことだったのか。
目に見える表層の向こう側にある、何がしかの構造の構成が垣間見えた瞬間だった。
所詮、憶測に過ぎないのかもしれない。しかし今は、憶測もリテラシーに動員しなければならい状況だ。憶測や観測をどう判断するかというリテラシーも含めてだが。