あちこちの掲示板などでも取り上げられているけれど、内田樹さんが翻訳して公開したドイツ Frankfurter Allgemeine Zeitung紙の記者 Carsten Germis について、拡散のために紹介させていただこう。
ドイツのある新聞の東京特派員が過去5年間の日本の政府と海外メディアの「対立」について記事を書いている。
安倍政権の国際的評価がどのようなものかを知る上では貴重な情報である。
でも、日本国民のほとんどは海外メディアが日本をどう見ているのかを知らない。
日本のメディアがそれを報道しないからである。
しかたがないので、私のような門外漢がドイツの新聞記者の書いたものをボランティアで日本語に訳して読まなければならない。
このままでは「日本で何が起きているのかを知りたければ、海外のメディアの日本関連記事を読む」という傾向は止まらない。
そんなことまで言われても日本のジャーナリストは平気なのか。
日本のジャーナリズムは危殆に瀕している。内田さんが冒頭に語っているのはそういうことだ。日本のニュースを知るために、海外に発信されている記事を翻訳しなければならないという事態は、たしかに極めて異常だ。しかし、たとえば原発事故に関しても、東京電力の事故原発担当幹部が、NHKの海外向けニュースのインタビューで廃炉に向けての手段も技術も持ち合わせていないと、国内向けには決して語られることがない実情を吐露するなど、日本人が日本の国で起きていることを知らされていないのは残念ながら事実と言うほかない。多くの新聞やテレビのニュースを見ているだけでは、本当のことが分からないという状況がこの国を覆っている。
5年間東京にいた記者からドイツの読者へ
5年間を日本で過ごしたドイツ人記者は滞在中に「空気の変化」を感じ取っていた。離日にあたって彼が記したのは、まさにそのことに尽きる。
日本の指導層が考えていることと海外メディアが伝えることの間のギャップは日々深まっている。それによって日本で働く海外ジャーナリストたちの仕事が困難になっていることを私は憂慮している。もちろん、日本は報道の自由が保障された民主国家であり、日本語スキルが貧しい特派員でも情報収集は可能である。それでもギャップは存在する。それは安倍晋三首相のリーダーシップの下で起きている歴史修正の動きによってもたらされた。
この問題で日本の新しいエリートたちは対立する意見や批判をきびしく排除してきた。この点で、日本政府と海外メディアの対立は今後も続くだろう。
「日本政府と海外メディアの対立」という言葉は、彼がドイツの新聞社の記者だからこその表現だろう。しかし、ここに、日本の国内メディアの現状が影絵のように描き出されていることに注目しなければなるまい。海外メディアは日本政府と対立している。では、日本の国内メディアはどうなのか?
批判的姿勢はメディアにとって不可欠のものである。しかし、Carsten Germis のこの言葉は、すでに国内メディアには批判精神が失われていることを暗黙の了解事項としているかのようだ。
本紙は政治的には保守派であり、経済的にはリベラルで市場志向的なメディアである。しかしそれでも本紙は安倍の歴史修正主義はすでに危険なレベルに達しているとする立場に与する。これがドイツであれば、自由民主主義者が侵略戦争に対する責任を拒否するというようなことはありえない。
日本の国内メディアは、そして日本の国民は完全に突き放されている。もちろんドイツ人読者に向けた記事だからということはあるだろう。しかし、「ドイツであればありえない」とは、これはあまりにあんまりだ。むろん酷いのは記者がではない。この国の現在の有り様がである。海外特派員が本国に向けて「日本はありえない国だ」と報告されえてしまう日本の現状がである。
安倍政権の歴史修正主義について私が書いた批判的な記事が掲載された直後に、本紙の海外政策のシニア・エディターのもとをフランクフルトの総領事が訪れ、「東京」からの抗議を手渡した。彼は中国がこの記事を反日プロパガンダに利用していると苦情を申し立てたのである。
冷ややかな90分にわたる会見ののちに、エディターは総領事にその記事のどの部分が間違っているのか教えて欲しいと求めた。返事はなかった。「金が絡んでいるというふうに疑わざるを得ない」と外交官は言った。これは私とエディターと本紙全体に対する侮辱である。
彼は私の書いた記事の切り抜きを取り出し、私が親中国プロパガンダ記事を書くのは、中国へのビザ申請を承認してもらうためではないかという解釈を述べた。
私が? 北京のために金で雇われたスパイ? 私は中国なんて行ったこともないし、ビザ申請をしたこともない。もしこれが日本の新しい目標を世界に理解してもらうための新政府のアプローチであるとしたら、彼らの前途はかなり多難なものだと言わざるを得ない。当然ながら、親中国として私が告発されたことをエディターは意に介さず、私は今後も引続きレポートを送り続けるようにと指示された。そしてそれ以後、どちらかといえば私のレポートは前よりも紙面で目立つように扱われるようになった。
メディアと政権の確執。 Frankfurter Allgemeine Zeitung紙のシニア・エディターの姿勢には、メディアは圧力を受けるものという前提が感じられる。圧力はあって当たり前。そして圧力に屈しないことこそが、メディアをメディアたらしめる立ち位置という覚悟(それを覚悟と感じること自体が日本の有り様の貧しさを示しているようにも感じられるが)が言外に記されている。
しかし、2014年に事態は一変した。外務省の役人たちは海外メディアによる政権批判記事を公然と攻撃し始めたのである。首相のナショナリズムが中国との貿易に及ぼす影響についての記事を書いたあとにまた私は召喚された。私は彼らにいくつかの政府統計を引用しただけだと言ったが、彼らはその数値は間違っていると反論した。
総領事と本紙エディターの歴史的会見の二週間前、私は外務省の役人たちとランチをしていた。その中で私が用いた「歴史をごまかす」(whitewash the history)という言葉と、安倍のナショナリスト的政策は東アジアだけでなく国際社会においても日本を孤立させるだろうとうアイディアに対してクレームがつけられた。口調はきわめて冷淡なもので、説明し説得するというよりは譴責するという態度だった。ドイツのメディアがなぜ歴史修正主義に対して特別にセンシティブであるのかについての私の説明には誰も耳を貸さなかった。
来日したメルケル首相がなぜ、原発廃止と歴史問題について繰り返し発言したのか。日本のメディアには彼女を非難する論調が目立っていた。ドイツ首相の言葉を友人だからこそのアドバイスだと受け取って解説するような報道は、ほとんど見られなかった。あらためてドイツ人記者の記事を通してこのことを考えると、いかに日本が破廉恥な状況に陥っているのか悲しくなる。
私の望みは外国人ジャーナリストが、そしてそれ以上に日本国民が、自分の思いを語り続けることができることである。社会的調和が抑圧や無知から由来することはないということ、そして、真に開かれた健全な民主制こそが過去5年間私が住まっていたこの国にふさわしい目標であると私は信じている。
「私の望みは外国人ジャーナリストが、そしてそれ以上に日本国民が、自分の思いを語り続けることができることである」という言葉は、自分の思いを語り続けることができなくなる状況が迫っているという指摘だと受け取るべきだろう。
自由にものを言えない国は、民主国家ではない。
ゆっくりとした変化の中では、意識することは難しいかもしれない。しかし、ある一時期に日本に滞在し、その期間の変化をまるで抜き取るように経験した外国人ジャーナリストがどう感じたのか。彼の言葉をドイツ語から日本語にのみならず、日本人にとっての意味を見出すように翻訳し、相変わらず溢れんばかりに垂れ流され続ける国内メディアによる報道を読み解くツールとして活用しなければならない。
自ら客観視することができないのであれば、外からの目を活用させてもらうことは重要だろう。海外の報道を日本語に翻訳して伝えることに力を入れる必要があるだろう。しかしそれは、とても情けないことだということを強調しておきたい。
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