もしもこの人が生きていたら、と思うことがある。非科学的と否定されることが多い大地震の前兆現象に科学者として正面から取り組み、危険予知システムを作り上げた弘原海清(わだつみきよし)さん。著書を通じて彼のことを知ったのは東日本大震災の後だった。ぜひ話を聞いてみたいと思ったのだが、残念ながら彼は大震災の年の1月に亡くなっていた。
東日本大震災の前にも多かった前兆現象
「カタクチイワシの時期なのにマイワシばかり獲れた」(漁業関係者・女川)
「地震の直前に山鳴りがした。本震の後の余震でも、山鳴りの後にグラグラというパターン」(原発現場監督・浪江)
「今年の初め頃から海中の様子が言葉で言い表しようのないいやな感じになった。当日は作業中に気分が悪くなってお昼に仕事を中止した」(潜水士・女川)
「いまも時々、耳鳴りのように山鳴りの音を感じることがある。するとどこかで小さいのが起きているんだよね」(商店主・石巻)
東日本大震災でも、前兆現象と呼べそうな話はいろいろとあった。弘原海さんなら、このような話をどう考えるのだろうかと聞いてみたいところだが、彼はもういない。
地震の危険を訴えることができなかったという自責の念が出発点
弘原海さんは地球科学の専門家として大阪市立大学の教授の任にあった時、兵庫県加西市の自宅で阪神淡路大震災に見舞われた。ご自身に被害はなかったものの、大学で組織した「阪神大震災学術調査団」の団長として入った被災地で、「先生、じつは地震が発生する前に、こんな不思議なことが起こったんですよ」と多くの人達から前兆現象について聞いたという。
地球科学者として被災地域の地質調査に永年携わり、阪神地域の直下型地震の危険性を訴えながらも、それが広く人々に認知されることなく、結果として多くの犠牲者を出してしまったことに、弘原海さんは大きな自責の念を抱いていた。
また、彼には最先端の測定システムを備えていながら、カリフォルニア州で繰り返されるサンアンドレアス断層の地震を予知できなかったアメリカの事例や、反対に気象や動物の異変を住民から報告してもらうことで地震の余地に成功した中国・海城地震について調査に携わった経験もあった。
現在の地震科学では、地震の発生を正確に予知することは難しい。しかし、気象や生物の異常から地震予知に成功した事例はある。もしも科学的に実証できるのであれば、地震災害による被害を経験することができるのではないか。
神戸の被災地であまりにも数多く寄せられる地震発生前の異常に関する声に、弘原海さんはテレビで情報提供を呼びかけた。そして集められた1500件を超える情報を分類・検討することで、弘原海さんは前兆現象からの地震の危険予知の可能性を確信していったようだ。
地震の前兆現象は非科学的か?
地震の前ぶれといえばナマズだろう。単なる迷信というだけでなく、鯰が地震を起こすということは江戸時代には通説として広まっていたようだ。そのことは安政大地震の後などには「鯰絵」と呼ばれる浮世絵が大流行したことからも伺える。
しかし、ナマズが地震が起こすという通説はあまりにも他愛なく、科学の進歩が社会に浸透していく中で、真っ先に迷信として抹殺された。
1975年2月4日、中国の遼寧省で発生した海城地震では、中国政府が主導した地震の前兆現象を集計・分析する仕組みで、地震の発生を予知。大規模な避難所を地震発生前に建設し、地域のほとんどの住民を収容。地震では建物等の被害は大きかったものの、人的被害を最小限におさめることに成功したとされた。
予知のために収集された情報は、主に身近な動物たちの異常行動だった。中国では動物の異変を報告し、地震予知に役立てるために地震予知の歌までつくられているという。
中国・地震予知の歌
地震の前、動物には予兆がある
みんなで観察し、防ぐことがとても大切だ
ウシ、ヒツジ、ラバは囲いに入らず
ブタは餌を食べず、イヌがやたら吠える
アヒルは水に入らずに岸で騒ぎ
ニワトリは木の上に
飛び上がって声高く鳴く
氷がはり、幸が降るころ
ヘビがねぐらを這い出し
親ネコは子ネコをくわえて走る
ウサギは耳を立てて跳ねたり
ものにぶつかったり
魚は水面でバチャバチャ跳ねる
ミツバチの群れがぶんぶん飛び回り
ハトは怯えて飛び、巣に戻らない
家ごとみんなで観察し
異常をまとめて報告しよう
引用元:「大地震の前兆現象」弘原海清(河出書房新社)1998年
見事なタイミングで地震予知に成功した海城地震については、日本や欧米からも多くの調査団が入ったという。弘原海さんもそのひとりだった。しかし、予知に成功したとはいうものの、中国当局の担当者の説明は、住民から寄せられた動物等の異常と群発地震の発生具合から予知に成功したというばかりで、動物の異常行動と自信を科学的に説明するものではなかく、日本や欧米の研究者をがっかりさせるものだったらしい。
その結果、いわゆる「前兆現象」に対する見方は、却って否定的なものへと傾き、やがて前兆現象をうんぬんするだけで、非科学的な姿勢と見られるようにすらなっていくきっかけになってしまった。
科学・非科学ってどういうこと?
阪神淡路大震災当時も、そして今でも、犬が落ち着かない様子だからとか、ニワトリが木に登ったからといって、地震が来るかもしれないと言えば、なんて非科学的な発想だろうととられることの方が多いだろう。
しかし弘原海さんは、科学者そして大学教授であるにも関わらず、迷信視されるジャンルにまともに取り組んだ。阪神淡路大震災で寄せられた情報を分類・整理・分析するのみならず、大阪市立大学を定年退職後は、職場を岡山理科大学に移して研究を続行。市民から寄せられる情報をもとに大地震の危険を予知するシステム「PISCO」を運用するに至った。
その姿勢に、ぼくは「天災は忘れた頃に…」の寺田寅彦の言葉を思い出す。
自然界の不思議さは原始人類にとっても、二十世紀の科学者にとっても同じくらいに不思議である。 その不思議を昔われらの先祖が化け物へ帰納したのを、今の科学者は分子原子電子へ持って行くだけの事である。 昔の人でもおそらく当時彼らの身辺の石器土器を「見る」と同じ意味で化け物を見たものはあるまい。 それと同じようにいかなる科学者でもまだ天秤(てんびん)や試験管を「見る」ように原子や電子を見た人はないのである。
(中略)
実は非常に不可思議で、だれにもほんとうにはわからない事をきわめてわかり切った平凡な事のようにあまりに簡単に説明して、それでそれ以上にはなんの疑問もないかのようにすっかり安心させてしまうような傾きがありはしないか。 そういう科学教育が普遍となりすべての生徒がそれをそのまま素直に受け入れたとしたら、世界の科学はおそらくそれきり進歩を止めてしまうに相違ない。
(中略)
こういう皮相的科学教育が普及した結果として、あらゆる化け物どもは箱根(はこね)はもちろん日本の国境から追放された。 あらゆる化け物に関する貴重な「事実」をすべて迷信という言葉で抹殺(まっさつ)する事がすなわち科学の目的であり手がらででもあるかのような誤解を生ずるようになった。 これこそ「科学に対する迷信」でなくて何であろう。 科学の目的は実に化け物を捜し出す事なのである。 この世界がいかに多くの化け物によって満たされているかを教える事である。
気象や動植物の異変と、地球の地殻で起きる現象を結び付けて考えることを「迷信」として退ける姿勢こそ「科学に対する迷信」。科学者とは、世界にあふれる不思議に科学的姿勢で臨み、理解を深めようとするからこそ科学者――。
弘原海さんの前兆現象に対する姿勢と寺田寅彦の思想がみごとに重なって見える。
そういえば、寺田寅彦は地震にともなう発光現象にも言及していた。
市民が情報を寄せ、情報を寄せた市民自らが危険回避の行動をとるかどうかを判断する減災ツール
いつもと違った現象があったからということだけで、地震や異変と結びつけて考えることにはもちろん無理がある。しかし、地震の前に発生する物理的・科学的な自然環境の変化が引き金になって、通常ではありえない気象現象が発生したり、動植物にストレスを与え、結果的に異常現象に結びつくのだとしたら、これは十分に蓋然性が高いといえる。
弘原海さんは、地震の前に発生する異常とも思える気象現象、たとえば地震雲(弘原海さんの著書の表紙写真にあるのも、阪神淡路大震災の直前に神戸市垂水港から杉江輝美さんが撮影した地震雲だ)や、動物の異常行動を、地殻の破壊によって大気中に放出される電荷を持ったイオン、帯電エアロゾルの影響との仮説の元に、異常現象の検討を行っている。
大気の流れに逆らって直立する地震雲や、動物の異常行動もこのことから説明が可能だとする。興味深いのは魚類の中ではナマズがとくに電界の変動に敏感だということだ。地震とナマズの行動に相関関係が見いだされれば、昔の人の観察眼の高さが証明されることになるかもしれない。
そして、積み重ねられた研究成果について、弘原海さんが力を注いだのは、地震危険予知システムを実現することだった。
現代の科学では明確な地震予知は不可能といわれている。しかし、私は兵庫県南部地震で多くの前兆証言を収集し、その後多くの研究者を交えてこれらの証言を分析した結果、住民レベルの宏観異常情報が地震の発生予知の大きな手掛かりになると確信した。
未来の地震から自分たちの命は自分たちで守りたい、何も知らずに突然命を失うのは兵庫県南部地震で最後にしたいとの思いから、宏観異常情報を事前に広く集め、危険回避の公道につなげることはできないかと考えた。
(中略)
このシステムは、地震を直接予知するというのではなく、全国の住民が観察した宏観異常の情報をリアルタイムで集め、その集計結果から地震の前兆かどうかを推定し、地震の危険時期と地域を予測するものである。住民が宏観異常情報を共有し、自己責任で冷静に危険回避行動をとることをサポートする「地震危険予知」システムを目指している。
(注:宏観異常:通常とは著しく異なる動植物、自然の異常のこと)
引用元:「大地震の前兆現象」弘原海清(河出書房新社)1998年
弘原海さんが取り組んだ「PISCOシステム」は、特定非営利活動法人「大気イオン地震予測研究会e-PISCO」として2004年から運用されてきた。
この取り組みで特に重要なのは、弘原海さんが著書に書いた「住民が宏観異常情報を共有し、自己責任で冷静に危険回避行動をとることをサポート」という点にある。
日本では地震の研究は専門の研究者にほぼ独占された状態にある。そして、地震予知もまた専門の研究者たちの専売特許状態で、一般人が口をはさむ余地はない。(火山噴火についても同様だ)しかし、仮に大地震の予兆が顕著に見られたとしても、社会に及ぼす莫大な影響を顧みることなく地震への警戒が訴えられるかどうかは疑問がある。研究者は研究の専門家であって、社会や経済に及ぼす影響を担保するような仕組みは整備されていない。「100%地震が発生する」という確証がなければ警戒を訴えることを難しいだろう。しかし、自然現象を100%の確立で予見することは不可能だ。まさに御嶽山の噴火と同様、兆候はあったが、警戒を発表するには至らないうちに実際に噴火が始まってしまったという状況が今後も繰り返される恐れが大きい。
しかし、PISCOの考え方は違う。市民が情報を提供し、情報を提供した市民自身が災害の危険について考えて、自己責任で行動するというものだ。専門家に「あなた任せ」で警報や避難情報を出してもらうのではなく、自分自身で判断する。判断できるくらいに市民自らも勉強するということが前提になっている。
残念ながらe-PISCOのホームページは必ずしも活発ではないが、専門家任せではない災害対策、減災のためのツールとして、大地震前の前兆現象への科学的な関心が高まっていけばいいと強く思う。