華夕美
万石浦(まんごくうら)という湾沿いに位置している華夕美。湾の入り口は狭く、そこに1本の橋がかかっています。その橋には船や瓦礫が引っかかり津波はそこでせき止められる形になったそうです。そのため華夕美は津波による被害は女川の他の場所に比べると小さかったようです。
とはいえ、建物の外壁や下の階にある機械室などはやられてしまったそうですが、海に面している華夕美がこれだけの被害で済んだのは奇跡かもしれません。
さぶは復興支援ツアー2014の1日目の宿泊地にこの『華夕美』を選びました。
女将さんはお忙しいなか、さぶにいろいろな話をしてくれました。
華夕美は約半年もの間、避難所として被災者を受け入れ約80人もの方が避難所生活をおくったそうです。
ここにいた80人はみな震災で誰かしら家族を亡くしてしまった方ばかりだったそうです。みんな同じ思いをしていることからお互い慰め合うこともなく、その部分では割と気楽ではあったと言っていましたが、やはり知らない人と生活を共にする避難所生活は気持ちの面でも体力面でもそれこそ本当に大変だっただろうと思います。
しかしながら出てきた言葉は、半年も一緒に住んでいると『みんな家族』だったと笑顔でおっしゃっていました。
そして震災を知らないさぶにこう教えてくれました。
歩きやすい靴
水を入れたペットボトル
チョコレート1枚
絶対にこれだけは持っていなさいと言われました。これだけあれば1週間は生きられると。1週間生きぬけば、きっと誰かが助けてくれるからと。
大震災はすべての人たちの生活を一変させてしまいます。
中国人の従業員がいたある工場では、震災が起きたときに社長の奥さんがまず中国人の従業員に何かあってはいけないと山の方に避難するよう誘導したそうです。他の従業員はみんな亡くなってしまい、自分だけ助かってと非難をうけたそうです。あとになって奥さんのとった行動はまちがっていなかったことがわかったようです。非難してしまった人は先の見えない大きな不安から『自分だけ助かって』と心ない言葉を発してしまったのだと思います。震災は普段どこにでもあるような思いやりや心のゆとりまでも奪ってしまうかなと思います。
女川にはそのような(テレビやメディアでは報道されないようなエピソード←自分はこう判断しました)ことがたくさんあったと言われました。
そして女将さんは、起きてほしくはないが今後、東京より西で大きな地震がくるかもしれない。そのときどうすればいいか考えておかなくてはいけないと。家族を守るのは男の役目だと。そしてこうも言われました。どうしたらいいか一番知っているのはわたしたち。たくさんの方にいろいろ助けてもらった。何かあった時は必ず恩返しするからと。
最初は落ち込んでいる人もいたけど、1週間たったら女川の人はみんな元気に前を向いていたと力強くおっしゃっていました。これはさぶが思うに生きていくために落ち込んでいる暇なんてなかったんだろうと。。。
油断したら今にも大粒の涙がこぼれ落ちてきそうでしたが、
必死に堪えながらじっと聞いていました。
堪えていた涙が限界を迎えたところで女将さんの話は終わりました。
『また、ここに来ます』と約束をして部屋に戻りました。
部屋に戻る途中は完全に泣き虫さぶになっていました。
そして出発の仕度をしてホテルを出る時に女将さんは忙しそうに入口の部屋で何かの準備をしていました。私たちに気づいた女将さんは、また来るという約束を覚えてくれていて、『また来てくれるって言ってくれたから、行ってらっしゃいだね』と笑顔で言ってくれました。
次回『ただいま!』って華夕美を訪れたときは、『おかえり!』ってあの笑顔で迎えてくれるといいなと心に思い、華夕美を後にしました。
震災時の話を聞くだけでなく備えや実際に起きたとき何をすべきか聞くことができました。今の自分たちが東北のためにできること、そしていざという時に自分たちが生きていくためにやるべきことが見えた気がします。
女将さんの思い、さぶの思いを文章でうまく伝えることができたかわかりませんが、さぶにとってあの時間は一生心に残る大切なものになりました。
女川温泉 華夕美
■さぶろうたが見た東北【その2】 ~女川