ママ友への7つの質問の答に言葉を失った
「震災の話したら一晩では語り尽くせない」
よくママ友との間で出るセリフです。
集まったときのおしゃべりの中でふいに出る震災の話。
東日本大震災で被災した一人一人に事件や物語、一家のストーリーが有ります。
被災した者同士、あの時はこうだった、ああだった、こんな人もいた、あんなことも聞いた…話は尽きることがありません。
かと言って改まって震災について語り合う場も機会も無いので、親しい間柄でも突っ込んだ話はほとんど聞いた事がありませんでした。
ぽたるに自分目線で当時の話を書くようになり、間違った情報を載せる訳にいかないと思い立ち、信頼できる友人Yちゃんにメールで7つの質問を送ってみました。
彼女は快く快諾してくれて「当時書いてた日記を読み返すよ」とまで言ってくれて、家族にも同じ質問をしてくれて、一家のみんなから回答を頂きました。
彼女らしいキチンとした対応に頭が下がるおもいです。
そして、その回答を読んだ私は驚愕の事実に打ちのめされました。
やっぱり私が知ってることはほんの一握り、うわべだけ。
大規模すぎる避難所で生活するという苛酷と苦悩を、私は何も分かっていなかったのです。
問1・地震発生後初めて口にしたものは?
答・震災から二日めの朝にもらった飴
彼女は地震発生時、石巻市の沿岸に近い職場に居ました。
幸い避難して無事でしたが、車は流されてしまい、女川を目指して20kmの道のりを水が引かない中を歩き続けました。途中道路が寸断されやっと辿り着いたのは震災二日目の昼のことでした。
地震発生から40時間近く飲まず食わず…
でも彼女を含め、空腹はさほど気にならなかったという人がほとんどでした。
空腹を感じる余裕もない程の惨状が、目の前に広がっていたからなのでしょう。
彼女が辿り着いたのは女川町の最大の避難所となった総合体育館。
すぐそばに女川第二小学校、女川第一中学校、陸上競技場、野球場、サッカー場などが隣接する山続きの高台にありました。
女川町内で車に乗って高台に避難するとなると、とっさに思いつくのはこの場所しかありません。
まして学校に子供を預けた家庭は子供の引き渡しも兼ねての避難となり、相当な数の人々がこの施設に集まりました。
その数は3000人とも、それ以上とも言われています。
問2・定期的に食事が支給されたのはいつから?
答・震災後5日目から(3/16日(水))
重湯よりも水っぽいものを少量。
お湯の中に米が泳いでるようなものだったから食べるというより飲む。
それが一日に1回、多くて2回。
朝に配給される場合は9時頃。
つまり学校や仕事へ通う人は間に合わず、食べられなかったということ。
その時間が11時頃にまでずれ込むと「今晩は無しかな」と話したり。
(朝の配給されるとき夜の配給の有無は一切連絡されなかった)
かなりの待ち時間で並んでも、飲み込むのはたった数秒。
父は糖尿の持病があったので自分はガマン出来たが、とにかく父が心配だった。
高台に学校の給食センターがあり、残っていた食材を配給したそうだが、小さい子供から順番に並び、量もほんの少し。もちろん大人になど到底回らなかった。
つまり3月16日、震災から5日目までは食糧の確保は各自まかせ、身一つで避難した人は本当に何も無かったと言う事。
流れ着いた冷凍のサンマを拾い、側溝の鉄格子網で焼いて食べたり、流された自動販売機を壊して中身を取り出し、こどもやお年寄りに飲ませたりもしたそうだ。
震災2~3日目にサンマのつみれ汁の様なものが配られたが、生煮えだったらしく、それが原因かお腹を壊したり嘔吐する人が沢山出てしまったことも耳にした。
問3・一日3食になったのはいつ頃から?
答・5月9日から(震災後59日目)
朝・ゼリー飲料
昼・仕出し弁当(小・中学校ではパンと牛乳とクッキーの給食)
夜・菓子パン
驚くべきことに、1日3食になるまでに2カ月近くも要していたのだ!
それまではみんないつもお腹を空かせていた状態。
この事実には本当に驚かされたし、涙が出た。
一部の人は食料を手に入れるルートを持ちながらも、自分たちだけ。
周囲に配る事も無く、手にした食料を隠すこと無く広げていたので、それを子供たちが見てしまうのが辛かったそう。
問4・一番嬉しかった食料は?
答・Yちゃん → 強いて言えばバナナとかゼリー
長男(小5) → サンマのすり身汁
長女(小1) → ゼリー
Yちゃん母 → 水
当時水分を取ることもままならなかった。水の大切さを痛感した。
沢水や湧水を汲んで飲んだという話もたくさん耳にした。
雪の降る寒さの中、サンマのすり身汁のような温かい食べ物は本当に貴重だったに違いない。
問5・一番嫌だった食料は?
答・長男・長女 → ゼリー飲料(ココナッツ味)
毎朝の食事がこのゼリー飲料。
大人は仕方なくガマンして飲んだが、子供たちは全く手を付けなくなった。
お腹が空いていても飲まない方がマシと言うくらいの味だった。
200キロカロリー、それが毎朝の朝食に。
その後、ゼリー飲料にヤマザキのパンが付くようになる。
そしてしばらくはずっとパンオンリーの日々が続く。
毎日2食がカロリーの高いヤマザキのパン。
みんな胃腸の調子が悪くなり、避難所の診療所に行く。
父が超太り焦った、しまいにはパンを見るだけで胸焼けする。
ちなみにその頃に頂いていた種類のパンは本当に申し訳ない話だが、
未だに購入したいと思わない。
その後、苦情出ておにぎりになったが、そしたら毎食おにぎりオンリーだった。
小規模の避難所で配布される食料は多種多様だったそうだ。
3000人近い総合体育館の避難者。
不平等になるからと、同じものが3000個そろわないと配布出来ない、そんな理由。
それゆえ一度手配するとずっと同じものしか届かなかったのかもしれない。
3000食という数、やっぱり仕方が無い数だったのだろうか。
問6・避難当時一番食べたかったものは?
答・ Yちゃん → 焼肉
長男(小5) → お腹がいっぱいになれば何でもいい
長女(小1) → ステーキ・ハンバーグ
Yちゃん母 → お刺身
一番好きなもの、食べることが叶えられたのはかなり先のことだったはず。
日に一度の食事もままならない状況、お腹が空いて食べたくても食べられない、相当なストレスだったはず。
息子さんの「お腹がいっぱいになれば何でもいい」という答は、自分の欲求を言うことさえもためらわれ、心の奥に押し込んでるんだろうなと私は感じました。
事実、Yちゃん家族の間でも「自分はいいから」と、Yちゃんが食べないで子供たちに与えると、今度は逆にお兄ちゃんがそれを食べたふりして家族に与えようとしたそうです。
自分のことよりも家族が大切だったのです。お互いに。
問7・食事にまつわる忘れられないエピソードは?
答・食べ物が本当になかった頃に、友達がチョコレートを数個持ってきてくれてこっそりポケットに入れてくれた。
・両親が行方不明で探しに来た知人がお昼の食糧のパンを1個しかないのに、まだ避難所で配給ないのを知っていて、食べずに私たち家族にくれたこと。家族5人でその1つのパンを分けて食べた。
・お代わりがやっと出来るようになった頃、何かが余ると放送が有り、何のお代わりがあるかもわからないのに皆お椀を持って走り並んだこと。行ってみるとフルーツだったり味噌汁だったり。
・お腹が一杯になるまで食べれるようになったのは配給業者に「すかいらーく」が入ってからだと思う。安定はしたけど同じメニューの繰り返しだから野菜不足だった。子供も飽きるくらいだから、お年寄りは食べれなかった方が多かったし、ハンバーグとかケーキが毎日出ても高齢の方にはキツかった。
・配給する人が、知ってる人だと盛りが違うってのが騒ぎになってた。嫌いな人には少なかったり、知り合いには多かったり。みんな死活問題だから、実際見ると少ない人と多い人の量は明らかに違ってた。この盛りが違う事件は数ヵ月、いや、すかいらーく入ってからもあった。
・役場の職員が餌付けと言いながら私たちにお菓子を放り投げてたのが、屈辱的で忘れられない。
これは本当にあった、現実にあった話。
あの日、あの時、こんな辛い経験をしていた家族が実際に居た。
みなさんはどう感じましたか?
私はショックを受けました。
ここまで苛酷な状況だったことに。
この事実を知り、近くに居ても助けてあげられなかった自分に、もっとどうにか出来なかっただろうか?今更ながら自問自答しています。
災害時の食べ物や水は命に係わる大事なアイテム。
今でもポケットに飴玉、かばんにはお菓子、車には水と非常食を1箱欠かしません。
「車の燃費が悪くなるだろ?」なんて言われても気にしない。
「燃費悪くなっても死なないよ」
子供たちが食べ物を粗末にしたり、残したりするときには必ずこう言う。
「あの日を思い出してごらん。そしたら絶対に食べ物を粗末になんかできない。あの時の気持ちを絶対に忘れてはいけないんだよ」
あたりまえのことが、あたりまえでは無かったと気づかされた。
ありふれた日常が、どれほど幸福なことかと気づかされた。
みんな出来ることなら、あの日の朝に戻りたいと願ってる。
もう、誰にもこんな目にあってほしくないと願ってる。
那須野 公美