何の写真だろうかとキャプションを読んでみると、「ビキニ環礁の実験成功を祝い、きのこ雲のかたちをしたケーキに入刀する司令官と妻」とある。妻の髪飾りもまさしく、きのこ雲。
1946年、ビキニ(エニウェトク環礁)で行われた核実験は、ニューメキシコ、広島、長崎に次ぐ、人類史上4番目と5番目の核爆発だった。
ビキニではその後、1954年3月1日、キャッスル作戦と名付けられた水爆実験で、日本のマグロ漁船・第五福竜丸が死の灰を浴びることになる。
半世紀を隔てた現在の感覚からすると、そんな核実験の成功にきのこ雲の形のケーキに夫婦で入刀なんて考えられないことだが、この時代には「至極あたり前のこと」だったということを、わたしたちは考えるべきなんじゃないか。たぶん、司令官の奥さんは、「あなた、この髪飾りステキでしょ」などとダーリンに話しかけていたことだろう。
司令官夫婦の孫たちがこの写真を見たとき、どんなことを考えるのか。ぼくらは、それを想像することができる。なぜならぼくらは人間だから。
広島に原子力発電所を、とのプランがあった
冒頭の写真は日本の原子力発電の黎明期について知りたいと思って図書館で手にした、吉見敏哉さんの「夢の原子力」(ちくま新書 2012年8月10日刊)の冒頭近くに載せられていたものだ。この本は書評として紹介しようと思っていたが、読んでいく中でギョッとする話があまりにたくさんあったので、その箇所を先行紹介というかたちでピックアップする。
次なる「ギョッ」は「原爆被害を受けた広島に、原子力発電所をつくるべきだという機運がアメリカ側で盛り上がり、それに対して広島市長が「是」とする表明を行ったということだ。
少々長い部分になるので途中を略して以下に引用する。
山崎正勝は、一九五四年三月の水爆実験による被害拡大を機に世界的に広がった非難と反核のうねりを鎮めるために、アメリカがどのように日本を「アトムズ・フォー・ピース」の戦略的枠組のなかに導いていったかを綿密に検証している。それによれば、米軍がマーシャル諸島沖で水爆実験をしたのが三月一日、被爆した第五福竜丸が焼津に寄稿したのが十四日、事件が広く報道されて反響が広がるのが十六日からだが、早くも二二日には、米国家安全保障会議のG・B・アースキンが、事件後の日本での反米的な動きを牽制するため、日本に原子炉を建設する提案を行っている。
(中略)
アースキンの提案から半年後の九月、前述のマレーは広島に原子炉を建設するという大胆な提案を全米鉄鋼労組大会で披露した。それまでも核開発に関与してきた彼は、北米で実験用原子炉からの送電が最初に行われた都市であったアイダホ州アルコを訪れた際、原子力発電の将来性を実感し、電力不足に苦しむ「持たざる国々」に、アメリカは進んで原発を輸出して行くべきだと主張したのである。
(中略)
こうした翌年一月二七日、米下院でシドニー・イェーツ議員は、被爆地広島に原子力発電所を建設する決議案を提出した。この決議案提出を知った広島では、処方面に波紋が広がっていくが、そうしたなかでも広島市長浜井信三は、「原子力平和利用は一昨年から私が米国に呼びかけていたもので、とくに昨年渡米したときマイク正岡氏に頼んだ。彼のその後の熱心な運動が実を結んだと思う。……原子力の最初の犠牲都市に初めて原子力の平和利用施設が行われることは亡き犠牲者への慰霊にもなる。“死”のための原子力が“生”のために利用されることに市民は賛成すると思う」と、ひどく能天気に推進の姿勢を表明する(中国、五五年一月二九日)。広島市長が積極推進を表明する一方で、
(中略)
これは広島の被爆者を配慮してというよりも、米資本の原子力発電が国内に直輸入されることは、日本の電力産業にダメージを与え、産業復興の観点からも望ましくないとの判断が働いてのことだったであろう。数日後、原水爆禁止広島協議会は、米下院の決議案に反対表明をするが、その理由は「軍事的利用への転嫁と医学衛生面で大きな不安」があることとともに、電力産業が、「外国の支配下に置かれることは、日本の電力産業を破壊する」危険性があるとの強い拒絶反応を示してのことであった。
引用元:吉見俊哉「夢の原子力」(ちくま新書)29ページ~32ページ より
アメリカは水爆実験などで高まっていた「核への世界的な反発」を緩和する目的でアトムズ・フォー・ピースの政策を打ち出した。そのひとつの目玉として、被爆地広島に原子炉を建設するというプランを打ち出す。
それに対して、広島市長は積極的に賛同。日本の国としては結果的に反対することになるが、その理由は、発電事業に外国資本が参入することを拒むためだった。左派系の原水爆禁止広島協議会が反対表明したのは当然のことのように見えるが、それは市長による賛成と同じ理由によるものだった。
広島での核施設建設計画があったということ自体に、ギョッとさせられる。
さらにそれを拒んだ理由が、日本の電力産業を守るためだったとは。
著者、吉見俊哉という人
読み進めるに従ってさらに驚かされる事柄が登場する。それはただびっくりさせられるということではなく、これまで生きてきた世界観が覆されるような驚きだ。本書に描かれたことがらに、なぜもこれまでギョッとさせられることが多いのか。それは、あえて驚くべき事実を喧伝するために本書が著されたのではなく、現代史に対してきわめて冷静なメスを入れているからにほかならない。
著者である吉見俊哉という人は1957年東京生まれ。現在東京大学大学院情報学環教授で、専攻は社会学・文化研究。都市や博覧会、戦後社会などをテーマとする研究者だ。
学術的な研究のなかで掘り起こした「歴史的事実」が淡々と語られるからこそ、読者の深刻な驚きを喚起するのだろう。
日本の原子力発電黎明期の話としては、読売新聞社社主で原子力委員会初代委員長だった正力松太郎が、原子力博覧会で目にした原子力潜水艦用の小型原子炉を目にして「うちにも一台ほしい」といった話とか、中曽根康弘元首相が1954年、一議員の立場で原子力予算を獲得した話など、個人的なエピソードが広く知られているが、実はその背景にもっと深く広がりをもった社会的な空気であったり、米国からの働きかけがあったということが、本書では淡々と語られていく。
本書を読み進めるなかで、ギョッとさせられる要素は数多い。しかしそれは出来事そのものが奇異であることのみならず、そんな出来事が起こりえた時代背景へと読者の目を向けさせるものだ。
書評に先駆けて、この本のインプレッションを短く紹介した。
沢田研二さんが歌う「一握り人の罪」のヒトニギリビトが誰なのか。身につまされた。
文●井上良太