1941年、太平洋戦争開戦
日本時間12月8日未明の陸軍によるイギリス領マレー半島東コタ・バル上陸、海軍機動部隊によるハワイ真珠湾への航空攻撃、海軍航空隊によるフィリピン・クラークフィールド飛行場(米軍駐留)への渡洋爆撃などにより、アメリカ・イギリス・オランダに対して戦端が切られた。
1945年、GHQ「太平洋戰爭史」を新聞に掲載させる
日本を占領したGHQによって、太平洋戦争が始まったこの日から10回、全国の新聞紙上で「太平洋戰爭史」が掲載される。戦争中に国民が知りえた情報は大本営発表による歪曲されたもので、「太平洋戰爭史」によって初めて知りえた情報も少なくない。しかし、占領政策の一環として行われた連合国側の宣伝記事であるとの批判もある。
1953年、アイゼンハワー米大統領が国連総会で原子力の平和利用を提言
1945年、アメリカが広島・長崎に原子爆弾を投下して以来、核兵器はアメリカが独占するものだったが、1949年にはソ連も原子爆弾を開発。以後、核開発競争が急加速していた。
そのような軍事情勢の中でアメリカ大統領ドワイト・デヴィッド・アイゼンハワーが行ったのが、国連総会における「平和のための原子力」の提言だった。
我が国は、破壊ではなく、建設をしたいと願っている。国々の間の戦争ではなく、合意を願っている。自国が自由の下に、そして他の全ての国の人々が等しく生き方を選択する権利を享受しているという自信の下に生きることを願っている。
そして、アメリカ及びその同盟国であるイギリス、フランスは、ソ連との間で、会談を持つ用意があると述べた。また、原子力の平和利用について、次のように述べた。
アメリカ合衆国が追求するのは、単なる、軍事目的での核の削減や廃絶にとどまらない。
この兵器を兵士の手から取り上げるだけでは十分でない。軍事の覆いをはぎとり、平和の技術に適合させるための方法を知る人々の手に渡されなければならない。
アメリカは日本に対しては、核燃料はどんどん提供する。原発の技術も伝えるというスタンスで、日本における原子力発電を推し進めようとした。この提言を受けて、初期には正力松太郎(元読売新聞社主・原子力委員会初代委員長・初代科学技術庁長官:科技庁は原発技術推進のために新設された→東海村の原発建設に尽力)、続いて中曽根康弘(元首相・1954年、一議員でありながら原子力研究開発の予算を上程→美浜原発にはじまる実質的な商業炉を推進)らの手で、日本の原子力発電が推進される。
とはいうものの、アイゼンハワー提言から分かるように、原子力の平和利用とは、軍事目的に開発されてきた核爆弾の技術を発電に転用しようというもので、原爆と原発が同根のものであることは提言そのものが証している。
2013年、特定秘密保護法案成立or廃案?
2013年、特定秘密保護法案が12月6日を会期とする臨時国会で審議が行われきたが、野党側の抵抗を受けて与党側が会期の2日間延長を申し入れた。これによって、特定秘密保護法案の参議院本会議での採決が12月8日に行われる可能性も出てきた。もしこの日程で可決されなければ、廃案となる可能性もある。(記載は2013年12月6日)
歴史の中の12月8日
1854年 - ローマ教皇ピウス9世の回勅Ineffabilis Deus(英語版)によって「無原罪の御宿り」がカトリックの教義として公認。
1869年 - 第1バチカン公会議開幕。
1914年 - 第一次世界大戦: フォークランド沖海戦。
1941年 - 第二次世界大戦: マレー作戦・真珠湾攻撃(日本時間)。日本が米英に宣戦布告。
1941年 - 第二次世界大戦: 前日の真珠湾攻撃を受け、フランクリン・ルーズベルト米大統領が屈辱の日(英語版)の演説。
1945年 - GHQ、全国の新聞へ太平洋戰爭史を掲載させる。
1946年 - シベリア抑留: シベリアからの引揚げ船第一号が舞鶴港に入港。約5千人が帰還。
1953年 - 米大統領アイゼンハワーが国連総会で原子力の平和利用(英語版)を提言。
1980年 - 元・ビートルズのジョン・レノンが、ニューヨークの自宅(ダコタ・ハウス)前で、ファンに射殺される。
1987年 - ロナルド・レーガン米国大統領とミハイル・ゴルバチョフソ連共産党書記長、中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)に調印。
1991年 - ロシア・ベラルーシ・ウクライナの代表がソビエト連邦の消滅と独立国家共同体の創立を宣言。
1995年 - 福井県の高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏洩事故発生。事故隠しが問題に。
1999年 - J・K・ローリングの小説『ハリー・ポッターと賢者の石』が日本で刊行。
この日が誕生日
◆1847年 中江兆民
日本の思想家。ジャン・ジャック・ルソーを日本へ紹介した。幸徳秋水は弟子筋。坂本龍馬とも出会っていたという。
◆1861年 アリスティード・マイヨール
フランスの彫刻家、画家。古典的ながら曲線が強調された裸婦像を多く制作した。
◆1864年 カミーユ・クローデル
フランスの彫刻家。ロダンの影響を受けつつも師を凌駕するほどの才能を見せる。しかし、ロダンと内妻との三角関係など私生活が注目されることが多い悲劇的なアーティスト。代表作に「ワルツ」「泡」「ロダンの胸像」など。
◆1865年 ジャン・シベリウス
フィンランドの作曲家。交響詩「フィンランディア」、「エン・サガ」など。
◆1868年 徳冨蘆花
明治期の日本の小説家。徳富蘇峰の弟。代表作は「不如帰」「寄生木」「黒い目と茶色の目」など。号の由来は「『蘆の花は見所とてもなく』と清少納言は書きぬ。然もその見所なきを余は却って愛するなり」。
◆1886年 ディエゴ・リベラ
メキシコの国民的な画家。壁画運動を推し進めた。42歳の時、20歳年下のフリーダ・カーロと結婚。美女と野獣カップルといわれたとか。
◆1903年 嵐寛寿郎
日本の映画俳優。名は「かんじゅうろう」と読む。通称アラカン。「鞍馬天狗」といえばこの人。
◆1925年 大石真
児童文学作家。「チョコレート戦争」「さとるのじてんしゃ」など、いまも人気の小説や絵本多数。ジャック・ロンドンの「野性の呼び声」の翻訳も手がけた。
◆1930年 井上武吉
日本の彫刻家。靖国神社無名戦士のための記念碑「慰霊の泉」、荒牧バラ公園の「平和モニュメント」など。箱根彫刻の森美術館、池田20世紀美術館の設計も行った。
◆1930年 マクシミリアン・シェル
ウィーン生まれの俳優、映画監督。「戦争のはらわた」「遠すぎた橋」「ディープ・インパクト 」など。
◆1934年 藤村俊二
日本のタレント、俳優、声優。「おヒョイさん」。
◆1934年 高倉照幸
熊本出身の元プロ野球選手。西鉄ライオンズ黄金期の「斬りこみ隊長」。後に巨人でも活躍。
◆1943年 土井正博
大阪出身の元プロ野球選手。高校を中退して近鉄に入団。「18歳の四番打者」と呼ばれた。後に太平洋クラブ・西武ライオンズで活躍。引退後コーチとして清原和博の指導を行った際、教え方に悩んだ挙句に50代で総白髪になったという。
◆1973年 稲垣吾郎
日本の歌手、タレント(SMAP)
◆1973年 佐藤秀峰
日本の漫画家。「海猿」「ブラックジャックによろしく」「特攻の島」など
この日亡くなった人たち
・1714年 柳沢吉保
江戸時代の側用人。徳川綱吉の寵愛を受け、大老格として権勢をふるう。綱吉の死後は政権中枢から駆逐され、綱吉の5年後に逝去した。墓は武田信玄が眠る山梨県の恵林寺にある。
・1924年 山村暮鳥
詩人・児童文学者。「お芋のふけるのを、こどもらと楽しくいっしょにまちながら…」で始まる「ちるちる・みちる」、「手ぶくろ」、「港の唄」など。
・1933年 山本権兵衛
薩摩藩士、海軍大将、第16・22代内閣総理大臣。戊辰戦争の後、西郷隆盛に勝海舟を紹介され海軍の道に入る。海軍兵学校(2期)の成績はブービーだった。西郷従道の推薦を受け47歳で海軍大臣として入閣。大正時代に度、首相を務めるが、いずれもシーメンス事件、虎ノ門事件の責任をとる形で短命に終わった。
・1941年 岩佐直治中佐
太平洋戦争で最初に「軍神」とされた9人のひとり。9人は九軍神と呼ばれる。
岩佐直治 中佐
横山正治 少佐
古野繁実 少佐
広尾彰 大尉
佐々木直吉 特務少尉
横山薫範 特務少尉
上田定 兵曹長
片山義雄 兵曹長
稲垣清 兵曹長
真珠湾への航空攻撃と同時に、湾内に2人乗りの特殊潜航艇で侵入し戦死した。捕虜となって生存した1人の存在は伏せられていた。
・1956年 ジミー・エンジェル
ベネズエラのエンジェルフォールズを発見したアメリカ人飛行家。死後、遺灰はエンジェルフォールズに撒かれたという。
・1980年 ジョン・レノン
同年11月に発売された「ダブル・ファンタジー」のヒットの最中、自宅だったダコタ・ハウス(ニューヨーク)のエントランス前で射殺された。自宅近くのセントラルパークには「ストロベリーフィールド」と呼ばれるメモリアルがあり、いまも花が絶えることがない。
・1982年 三波伸介
日本のコメディアン。伊東四朗、戸塚睦夫と「てんぷくトリオ」を結成し、「びっくりしたなぁ、もう」のギャグとともにテレビ番組で人気を博す。「笑点」「お笑いオンステージ」など司会者としても活躍した。
記念日など
成道会:仏様が悟りを開いた日とされる。
聖母の無原罪の御宿りの祭日:聖母マリアが一切の原罪を受けなかったとするカトリック教会の記念日。
事納め:一年の農作業・家業などをこの日で終わりにする日。この日以降は正月を迎えるための準備期間とされた。
針供養:折れたり錆びたり曲がったりした針を神社に納め、供養する。事納めとの関連もある行事。