東京で木枯らし1号が吹いた11月11日。各地でキャンドルナイトが行われました。
東北から、災害被災地へ。そしてフィリピンへ
石巻の黒澤さんは、「11日追悼」として。そして、津波のような台風の犠牲になったフィリピンの人たちへの祈りのメッセージをこめて。
大船渡の新沼さんは前日、もっと大きなライトを灯す仕事に出かけたとフェイスブックで伝えていました。それは被災したグラウンド用の照明。震災の後、学校のグラウンドを使うことができず、練習しようにも場所がなかったこども達。ようやく練習できるグラウンドを見つけても照明がないから練習時間が限られてしまう。
そんなこども達へのプレゼント。今回もいつもと同じく太陽電池とLEDによる照明なのかな。そうとう大がかりな仕事になりそうです。
国内で災害が発生するたびに連携を働きかけ、被災現場に急行してきた新沼さんのことだから、きっと11日は、さまざまな被災地に思いをはせる夜だったことでしょう。
とくに東北では、フィリピンの台風の惨状を目にして、何かしたいと多くの人が切実に考えたようです。石巻で活動する写真家の慶祐さんは「顔が見える人たちがやっている活動だから」と、フィリピンでの活動を始めたピースボート災害ボランティアセンターへの支援を決意したそうです。
今月の11日とその前後、たくさんの思いや祈りが空をこえて広がっていきました。
震災の前からつづいていきたキャンドルナイト
毎月11日には追悼のためのキャンドルナイトが日本各地で行われています。広場や公園で、お店で、家族で、そしてひとりで。もしかしたら、キャンドルナイト=追悼というイメージもあるかもしれませんが、もっとずっと以前からキャンドルナイトは行われてきました。
日本では、2003年の6月にスタートした100万人のキャンドルナイトが始まりといっていいでしょう。「でんきを消して、スローな夜を」というキャッチフレーズのとおり、サステナブル(持続可能)な世の中にしようという意識を持った人たちの呼びかけによって始まった、ゆるやかな、しかし実行力のある市民運動でした。
それは、何かに対して反対を叫ぶ運動ではなく、ただ「でんきを消してスローな夜を」それぞれが過ごすこと。キャンドルの灯りの元で家族と語らったり、子どもに本を読んであげたりすることで、日常では見えなかったことが見えてくるかもしれません。
NGO発の呼びかけに環境省が後援し、初めてのことながらもこのムーブメントは日本全国に広がりました。この年の6月22日には全国約2,300カ所の施設が消灯し、約500万人が消灯に参加したとされています。
この運動の呼びかけ人のひとり、マエキタミヤコさんがこんな話をしてくれたことを覚えています。
「夏至と冬至の年に2回、夜8時から10時まで消灯しましょうという運動だったのだけど、その当日ね、ちょうど同じ時間に少し離れたお向かいのマンションの部屋のでんきがすっと消えたんですよ。見ず知らずの人なんだけど、あそこにもキャンドルナイトに賛同してくれた人がいるんだなあって、感慨深かったなあ」
100万人の人がでんきを消すのなら、100万通りの理由があっていい。そんないい意味でのゆるやかさがこの運動にたくさんの人たちが参加する上での、たいせつな要素のひとつだったことが、いまはよく分かります。
理論や理屈や理由より共感。同じことをしているというだけでつながっていける思い。そんな感覚がけっして悪いことでも浅いことでもなく自然なものだということを深く知っている人たちだから、こんな形で運動が続けられたのだろうと。
いっぽう、この運動のもうひとつの根っこに、小説家で詩人の松下竜一さんによる「暗闇の思想」の考え方があったのも間違いありません。暗闇の思想というのは、1970年代、九州電力の豊前火力発電所建設に反対運動を行う中で、松下さんの中に結晶していった考え方です。思想そのものが暗闇的なのではなくて、暗闇の中を生き抜くための思想です。
かつて佐藤前首相は国会の場で「電気の恩恵を受けながら発電所に反対するのはけしからぬ」と発言した。この発言を正しいとする良識派市民が実に多い。必然として、「反対運動などする家の電気を止めてしまえ」という感情論がはびこる。「よろしい、止めてもらいましょう」と、きっぱりと答えるためには、もはや確とした思想がなければ出来ぬのだ。電力文化を拒否出来る思想が。
「確とした思想」「拒否出来る思想」という強い言葉が発せられていますが、松下さんは、真反対とも思えるほど柔らかくてあたたかい言葉を同じ暗闇の思想について語っています。それはある冬の晩、実際に家中のでんきを消した時のエピソード。誰とも知れないいやがらせ電話を受けた後、まるで冗談のようにでんきを消して、冷え込む冬の部屋で語られたこども達との会話です。
どうして電気を消すの? 星を見るためだよ。どうしてこたつまで冷たいの? マッチ売りの少女のお話を聞かせてあげるためだよ――。
原文を読んでいただくと、胸に明るく暖かな光がぽっと灯るのを実感していただけると思います。ぜひ。
入院が必要なほど具合が悪いのに、座り込みなどの「活動」に参加するほどの熱さや激しさを持っていた方ですが、松下さんの言葉には果てしないやさしさが感じられます。「思想」というものは、本来そのようなものなのではないかと、こども達とのやり取りを描いた短い文章が教えてくれるように思うのです。
1人ひとりのキャンドルナイトを
2013年11月11日。東北で、そして日本中で灯されたキャンドル。そこにはたくさんの思いや、それこそキャンドルの数だけの理由があったことでしょう。自分ちのキャンドルには、東北の知り合いへの思い、東北の知人経由で教えられた災害被災地の人たちへの思い、フィリピンで被害にあった人たちへの思い。そして加えて「でんき」そのものへの考えを込めて灯しました。
家のでんきを消し、蝋燭に火を点けた時には、庭先は真っ暗に見えていたのに、寒空の下で時間が流れていくうち、小さな蝋燭の光は明るくまぶしいほどになって、よく見ると蝋燭を入れたグラスからの透過光が、グラスを置いた石の上でゆらゆら揺らめいていました。蝋燭の火はたとえ風のない屋内でも、ゆらゆらかすかに揺らめいて、時々大きく身震いします。炎の動きにつれてまわりの影も踊るように動きます。まして、微風が流れ続ける屋外でのこと、キャンドルの灯は眺めていて飽くことがありません。
キャンドルに火を灯したのはかなり遅い時間になっていて、夜の空気は刻々と冷たくなっていくのですが、こどもと一緒にしばらく炎の動きに見とれていました。
昔は夜がいまよりずっと暗かったこと。1980年の消費電力は2011年の約半分だったこと(*注)。夜になるとほとんどの店が閉まっていたこと。それでもその時代の人たちは生活していたし、「もっと電気を!」なんて考える人なんかいなかったこと。そんなことをキャンドルの光の近くで話そうと思っていたのだが、
「お父さん、でも昔からコンビニはあったんでしょ!」
と力強い質問を唐突に投げつけられて、目論見はくじかれてしまいました。
「あぁ、まぁ、あるにはあったけどね。そういえば、80年代にこんなことがあった。夜中にどうしてもコミック本の続巻が読みたくなって江古田から石神井公園まで友達と歩いて行ったんだ。コンビニに行けばあるかなって。でもね、行けども行けども店がない。店があってもお目当てのコミックがない。けっきょく石神井公園まで真夜中の散歩になってしまったんだが、それだけ歩いてもコンビニは5、6軒しかなかったなあ。道も暗かったよ。街灯くらいは点いていたけど」
なんて応じるのが精いっぱい。生まれた時から飽電の時代を生きてきたこども達に「電力はもっと少なくてもやっていけるよ」と伝えるのはけっこうなハードワークなのかもしれません。
空を見上げると乳白色の半月。東の空にはオリオン座も昇ってきて。今夜のキャンドルナイトで一番輝いていたのは、やっぱりお月様かな、なんて思いました。
でもまた来月。11日にはキャンドルナイトをしようと思います。少しずつでも暗闇の親しみが伝わっていくことを祈りながら。
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●TEXT+PHOTO:井上良太
1980年には合計で4,850で、2011年は9,550(単位は億kWh)。