NHKで放送された「ロボット兵器が戦争を変える」という番組が衝撃だった。
前半のテーマは遠隔操縦の無人攻撃機。
テロリストが潜伏しているとみられる地域を空から偵察し続け、これぞテロリストだと、その所在を確定するや、ミサイルで攻撃する。
ミサイルが爆発して人々が死傷するという意味での戦場はパキスタンやアフガニスタンだが、無人機を操縦する兵士はアメリカ本土の基地にいて、モニタを見ながら敵と見られる相手を攻撃している。
テレビゲームのような戦争と呼ばれた由縁だ。
番組ではそんな攻撃任務に従事していた元兵士へのインタビューも流された。
「奇妙な生活でした。
12時間、いわば戦場にいて、そのあと街に出て、ハンバーガーを食べたり恋人に会ったり、パーティーに行ったりするんですから。」
番組はここから、遠隔操縦による誤爆、とくに民間人への被害が広がっていることを指摘し展開されていく。畑で収獲をしていた姿を、路肩爆弾を仕掛けているテロリストだと誤認されて女性が殺害されたパキスタンでの出来事。アメリカでも高まる無人機への批判。前出のアメリカ兵が「心が傷つきました」と語る経験。
しかし、誤爆さえなくなれば、無人攻撃機は是なのか。漠然とした疑問が残る。
無人兵器の合理性がひとの存在と歴史を蝕む
アメリカ本土の基地のモニタの前に座ったアメリカ兵は、自分が攻撃している相手から直接反撃されることはありえない。
相手をやっつけたいが、味方の被害は最小限に抑えたい。豊臣秀吉の昔から、大艦巨砲主義や航続距離が長いゼロ戦まで、敵の攻撃が届かない遠くから(つまり自分は相手に攻撃されない場所にいて)、相手を叩く「アウトレンジ」という戦術の究極形を実現するもののようにも、無人機は見えなくはない。だが、そんな考え方は次の問いかけに「Yes」という答えしか導きださないだろう。
誤爆をなくし、民間への被害を防ぐことができれば、自国の兵士の安全を守る無人攻撃機は是なのか?
しかし、それは違うのではないか。
話は飛ぶが、少し前にネットでも話題になった「なぜ人を殺してはならないのか」という話とも、遠隔操作の無人機の話はつながっている。
こどもにそう質問された時、何と答えるか――。という話。
・自分がされて嫌なことは他人にしてはいけないから。
・人を殺すと復讐されるかもしれないから。
・法律で決まっているから。
・殺された人は生き返らないから。
この質問になかなか明快な答えが出てこないのは(4番目は悪くないと思うが)、生の意義につながる問題だからかもしれない。世界中の宗教や道徳に、「汝、殺すなかれ」という一文が基本的な戒めとして記されているのに。
ひとは顔を持つ他者を殺すことができない
さらに話が飛ぶように見えるかもしれないが(ちゃんと戻ってきます。でもややっこしいから、次の段落まで飛んでもいいっすよ)、
聞きかじったところによると、エマニュエル・レヴィナスという思想家は、他者と倫理について深く深く考えた人だったらしい。彼の哲学のベースの部分には、こんな考えがあるという。
英語で「There is..」(~がいる)をフランス語では「il y a」(イリヤ)という。
ilは「It's a rainy day」とかいう時の「It」に当たり、
yは場所を示す代名詞。aは英語の「have」に当たる動詞。
フランス語では、「そこに何かがある」という言葉の中に、所有のニュアンスが込められている。
もちろん、フランス語にもbe動詞に当たるetre(エトル)という動詞もある。
レヴィナスはフランス語の言葉づかいを通して、
漠然とした抽象的な存在、etreと、
自分との間に関わりのある存在、il y a のhave動詞のように、何らかの関わりの中でしか所有しえない存在のふたつがあり、自分にとって意味のある他者とは明らかに関わりのある存在であるということを言っているのではないかと思う。
やたらと難し気だけど、この「他者にはふた通りがあって、本来的には関わりのある他者だけが、自分にとっての他者だ」というところは、ヘンにストンと腑に落ちる。
(さらに、この思想家は、顔を持った他者を人は殺すことができないとも言っている)
もいっこカッッコ付きで、
(この思想家がそんな難しげなことを言い募っていた頃、フランスという国では、「自分と他者」をどう考えるかということが普通の人たちの中でもとっても重要な問題になっていたようで、「Les Uns et les Autres」という映画まで作られた(監督はクロード・ルルーシュ、音楽はフランシス・レイとミシェル・ルグラン、最終シーンの舞台演出はモーリス・ベジャールの元、ジョルジュ・ドンがボレロを舞うというんだから、フランスの国民的映画といってもいいくらい)。邦題は「愛と哀しみのボレロ」なんてショボショボだが、欧州が見る欧州現代史観が織り込まれている。国内では第二次世界大戦以後の現代史を綴った「大河ドラマ」なんて宣伝されたりもしたけど、そんなのまるっきりのウソ。
comment faire pour se retrouver demain
描かれていたのは、「どうやったら明日をもう一度探し出すことができるんだろう」という青年の言葉のリフレイン。戦争中も、戦争の後も、資本主義社会が成立してみんなが豊かになって、バブル経済で世界中がせいやせいやとお祭り騒ぎして、そんな後までも、ずっとずっと問い続けるよ、というお話。
興味のある方、ぜひご覧くださいね)
そう、レヴィナスの哲学は難しいけど、この映画に描かれているのは、まさにレヴィナス的な関心、それは言うまでもなく「全人類的な」関心事だったりする。
それはさておき、問題は何万キロも離れたところからの殺人がどういうことかということだ。
何万キロも離れたアメリカ本土の基地の中のモニタに映る人影は、無人機を操る兵士にとって「顔」を持たない存在として現れる。その限りにおいて、人は人を殺しているという体験を経ることなく、殺害を行ってしまう。
リアルな戦場であれば、たとえそれが殺し合いであっても、対峙する兵士には人間としての「顔」があり、互いの「顔」を意識せざるを得ない。人格を有し、家族があり、人生という歴史と未来の時間を持った他者の「顔」を。
その感覚が失われるということは、モーゼの十戒の石板にも刻まれ、世界中の民族の神話や戒めの中で共有されてきた、人のあり方の根幹に当たる部分が破壊されてしまうことにつながるのではないか。
(しかし人間は、ガラスパネルのモニタの向こうに「顔」を想起する存在でもあるらしい。アメリカ本土から無人機の遠隔操縦に携わった兵士は、戦場でリアルな戦争を体験した兵士よりもPTSDになる率が高いという話もある。)
それを開発したのは誰なのか?
番組の後半は、兵器そのものが自律的に状況判断を行い、偵察やパトロール、果ては攻撃まで行うロボット兵器が紹介される。
X-47Bという無人機は、人が操縦することなく、航空母艦から発進・着艦することができる。レーザー光線や高出力マイクロ波で敵のミサイルや基地を攻撃する能力もあるという。
悪路をものともしない物資運搬用の馬型ロボットやハチドリをお手本にした小型の偵察ロボットや昆虫型ロボット。
昆虫型の偵察ロボットと言えば、石ノ森章太郎の「サイボーグ009」にも出てきたが、すでに実用化されていたとは!
そんな兵器を開発しているのはいったい誰なのか。ここまで漫画とそっくりだと、サイボーグ009に登場した悪の組織ブラックゴーストまでどこかに実在するのではないかと勘繰りたくなってくる。
番組の最後には、さらに驚きのメカが登場する。大友克洋の漫画「武器よさらば」に登場した無人歩行戦車のゴンクを髣髴とさせるロボットも実用化されているのだそうだ。
ロボット
「両手を上げて出てきなさい。」
イスラエル軍が、パレスチナのガザ地区との境界やエジプトとの国境線などのパトロールに使っている無人車両。見た目は自動車だが、自律的に動き回り不審者をピックアップ。攻撃装置を装備すればゴンクそのものだ。
ロボットが人間の生死を決定する権限を持つ未来。
知らないところでフィクションがリアルに変身し続けている。
comment faire pour se retrouver demain
明日をつかむ手を持っているのは、俺たちだけのはずだ。
●TEXT:井上良太(ライター)