大正3年生まれの祖父は、第二次世界大戦で日本兵として戦地に赴いたそうです。
93歳で亡くなっているため、今は戦争の話を直接聞くことは出来ません。
しかし、父は小さなころから祖父の出征の話を聞いてました。
今回は父から聞いた、祖父の戦争体験を書き留めます。
祖父から父へ、父から私へ伝え聞いた話なので、多少の時代のずれや思い違いもあるかもしれません。
しかし、戦争を風化させないために、祖父が父へ語った話をそのままを書いていきます。
祖父が召集されるまで
山口県下関市で育った祖父は、18歳で東京へ上京し電気の専門学校を卒業したそうです。
その後、佐世保海軍工廠(させぼかいぐんこうしょう)に行き、軍艦や潜水艦の電気検査技師として働きました。
休みがほとんどなく、たまに休みがあっても、憲兵が本当に休んでいるかチェックをしに来ていたそうです。
忙しく大変だったため佐世保海軍工廠をやめて、祖父は三菱重工業下関造船所へ転職をし、招集されるまでこちらで電気配線の設計として働きました。
内地へ招集
昭和16年ころ(詳細不明)、祖父は補充兵として内地に召集されます。
内地(広島か岡山ではないかと思われる)では、上官が厳しく、すぐに殴られるような環境だったそうです。
そんな中でも、祖父は殴られることが少なかったと話していました。
というのも、祖父は殴った腹いせに、その班のモーターをなかなか直さなかっためだったようです。
手に職がある人たちは、祖父も含めギリギリまで内地にいました。
しかし、戦争が激化してくると、祖父は外地への出兵を言い渡されます。
外地へ出兵
どこへ行くかも伝えられず、およそ1,700名ほどが輸送船に乗り出港したそうです。
おそらくフィリピン行きだったと祖父は言っていたようですが、今となっては本当にフィリピンへ行く船だったのかも定かではありません。
その祖父の乗った輸送船に、ある夜魚雷が当たって火事になります。
輸送船には学徒出陣の兵隊も多く乗船しており、怖くなった学徒兵たちが次々と海へ飛び込んだそうです。
すると船から漏れた油が海に流れだし、多くの学徒兵が焼け死んでいきました。
その時、「多くの学徒兵が『お母さん』と叫んびながら死んでいったのが忘れられない」と、祖父が言っていたそうです。
祖父は「どうせ死ぬから、最後はタバコを吸おう」と戦友と2人でぎりぎりまで甲板に残っていたと言っていました。
そうして明け方にいよいよ船が沈むときに海に飛び込み、木につかまって漂流していると、敵の飛行機グラマンが海に浮かんでいた日本兵に向かって機銃掃射(きじゅうそうしゃ)したそうです。
周りの戦友たちが死んでいく中、祖父の鼻の頭を銃弾がかすめ、家族からもらったお守りに弾に当たって浮いてきました。
その時に、「自分は助かるかもしれない」と思ったそうです。
漂流後に起きた悲劇
2日ほど海を漂流していると、日本の他の輸送船に助けられました。
「ロープで引っ張られる姿は、まるで魚釣りのようだった」と祖父が話していたそうです。
ようやく助けられて輸送船の大部屋で休んでいると、船の壁から突然弾が飛んできました。
そこでも何人も撃たれ、みんなで甲板に逃げたそうです。
甲板では、飛行機が来ると反対側に走って機銃掃射から逃げていきますが、どんどんと周りの戦友たちが死んでいきます。
血で甲板はどろどろになり、敵の弾をよけるために床に伏せると、両隣の人に弾が当たって死んでいたそうです。
ついに船は沈んでしまい、祖父は再度漂流をします。
更なる漂流
二度目の漂流中も、何度も敵の飛行機グラマンが攻撃してきたそうです。
せっかく日本の輸送船に見つけてもらっても、グラマンが来て助けてもらえずに漂流し続け、数日後に軍艦に助けられ、台湾に上陸しました。
祖父は「戦争中、ボカチンに3回あった」と話していたそうです。
艦が魚雷攻撃を受けて沈没すること。
日本海軍の兵士内での俗語で、「(魚雷を)ボカンと食らって(艦が)沈没」の略だと言われている。
外地へ足を踏み入れるまでにも、海の上でこのような惨劇がおこっていたそうです。
私が高校時代に祖父母といっしょに暮らすようになり、戦争体験を祖父が話してくれました。
祖父が淡々と話す姿というのは、とても不思議だったことを覚えています。
祖父は戦争中にあまりにも死が身近にありすぎて、「死体を見ても感情が動かない。死に対して感覚が鈍っている。」と父に話していたそうです。