墓標のように立つ境界標柱

むかし、しばらく静岡県に住んでいたことがあった。伊豆半島の狩野川は、太平洋岸の川としては珍しく南から北に流れる川で、何より川から富士山を望めるというのが売りだった。

その狩野川の河川敷に「国土交通省」と記されたポールがこれでもかとばかりに建てられるようになったのは2012年か13年頃か。東日本大震災の後になってからのことだったと思う。

国交省と記されたポールが意味しているのは、「この土地は国の持ち物ですよ」ということらしい。

いまから60年前、「狩野川台風」と呼ばれるは巨大な台風に襲われて伊豆半島だけでも1600人近い死者を出した。想像を絶する大災害だった。

狩野川は鎌倉幕府を支えた北条氏が支配していた昔から繰り返し水害に襲われてきた土地柄なので、古くから豪雨対策が繰り返し行われてきた。江戸時代の記録も多数残されているし、狩野川沿岸には「おそらく室町時代」とされる石積の跡もある。近代になってからはより抜本的な治水工事として、豪雨のときに水を流す放水路の建設が進められていた。実は、狩野川台風の際には、放水路はほとんどでき上がっていたのだという。

台風の襲来が翌年であれば、1600人近い犠牲者を出すこともなかったのにと悔やまれながらも完成した狩野川放水路。それは現在の伊豆の国市長岡の川の屈曲部から、沼津市口野湾に真っすぐに伸びる人工の河道だ。

幅100m以上のコンクリート敷きの河道と複数のトンネルとによって構成された人口の川は、建設省(現在の国土交通省)的には、歴史に刻まれるべき大工事だったという。

放水路が完成してからは、狩野川台風のような甚大な水害は発生していない。しかし、狩野川放水路を建設するために多くの田畑が接収されることになった。

以下は地元の人たちから聞いた話。

土地の収用にあたってはたしかに補償はあったが、耕作を続けたいという地元の要望は無視できず、代替地として、放水路より下流側の河川敷での農耕が黙認されたのだという。放水路建設で田畑を失った人たちは、荒れ果てた河川敷を悔恨し、農地とした。

ある意味では開墾したらその人の農地、いわば「切り取り勝手」という状況だったのだという。半世紀も前にそんな状況があったにも関わらず、国交省の持ち物であることを誇示するかのようなポールが林立するように建てられたことに、地元の人たちは当惑しているという。

国によって土地を接収され、その代替地として半世紀に渡って農耕を行ってきた土地に、或る日突如として数限りないほどの「国土交通省」というポールが建てられる。半世紀も前の話だから、現在その土地で耕作している人たちには詳しい話はわからない。

さて、ここまではこのページに記すことの「前史」的なものでしかない。なんとなれば、「国土交通省」であれ、「○○県」であれ、「△△市」であれ、土地の所有を示すポール、杭、看板の類いは、日本中の至る所に建てられているからだ。

この手の標識は、震災後、東北の被災地を歩いているとき、この場所が浸水地域なのかどうかのを判断する材料となるから気をつけて見るようになった。そうするとだ、東北では、そんな標識がやたらと多いのだ。しかもそれらは、狩野川沿いにあからさまに新設されたポールよりもずっと以前から、建てられていたものであるように思える。

コンクリート製で頂部に十字が刻まれているから境界標なのだろうが、こんな半分倒れかけた、まるで何十年も前の墓標のようにも見える標識が珍しくないのだ。しかも、こんなにたくさん建てる必要があるのかと思えるくらい、これでもか、これでもかと建てられている。これはいったい何を意味しているのだろうか。

狩野川沿いに林立するポールは異様な光景だったが、半ば朽ちかけたような古い標柱が林立する光景も、どこか空恐ろしいものを感じさせるのである。