ほんの小さな配慮

9月10日、77年ぶりとも言われる豪雨災害の現場から、さまざまな情報、中にはレスキューを求める情報が飛び交っていた昼下がり、仲間がFacebookに書き込んだ。

場違いかもしれないけれど書く、と断言するような前書き付きで。

最初に読んだ時、その人がなぜそこまでキツいことを言っているのかわからなかった。そこまで言う必要があるのかとも思った。

しかし、災害情報を集めたり、友達の友達の友達が被災したとか、友達の友達が支援したいからつながってほしいとか、そんな記事がたくさん上がっているのを拾っているうちに、たしかにそうかもしれないと思った。

その人の書き込みは短かった。メッセージは端的だった。そのものの力を再現できるかどうか微妙だが、自分なりにその人の言いたかったことを代筆する。(代筆なんて必要ないって叱られるかもしれんが)

いまは命が掛かっている時間帯です。
人が生きるかどうかという叫びがネットに寄せられています。
119番に電話しても繋がらないから、TwitterやFacebookに書き込んでいます。

TwitterやFacebookやブログは、たとえばお店や会社やNPOの宣伝をしたりするだけの場所ではないはずです。

今という時間をわきまえてください。

引用元:仲間の言葉を意訳させてもらいました

お門違いかもしれません。ネットはフリーでオープンで、誰でも書きたいことを書けばいい。それが基本中の基本なのは理解しているつもりです。

しかし、災害についての情報を集めている時に、例えば、

やっほー! 関東の北の方は大雨だけど、ウチは開店しているぞぉ~
今日のおすすめは仙台湾産の「穴子の白焼き」と山形採れたて「だだちゃ豆」!
悪天候の中、特別ルートで新鮮な素材が届いてま~す。
来ってね~ 待ってるからね~~

引用元:実際の記事をアレンジしたものです。引用とは言えませんが、こんな感じのがいっぱいだった

とか、いかにうちのNPOが社会貢献しているか滔々と述べるリポート記事とかが出てくると、なんで今日それをアップする必要があるの?と 仲間と同じ気持ちになった。そんな話が溢れているせいで命に関わる情報が埋もれてしまったり、探しにくくなっては困ると同感した。

その仲間とは実は意見が合わないことも多い。だけど意見や出来事に対する見方が違うからといってその人が仲間でなくなることはない。だからその人の言葉は自分にとって重みがある。そんなことなど――

どうでもいいことと思われるかもしれない。
ネットへの書き込みは自由だと思うかもしれない。
でも次のような場合をどう考えますか?

とある町で今朝、それも早朝、特別警戒情報が出されました。実話です。その地域の上流域では実際に氾濫が起きそうでした。中学生たちまで早朝から災害情報に耳をそばだてていました(休校になるかどうかという関心ではあったようですが)。その地域から下流側、少し河口からは離れた町に住んでいるある知人がネットに書き込みました。

「なーんだ、避難準備とか言うから起きてみたら、雨なんか降ってないじゃん」

同じ地域に移住した友人でレストランの主でもあるAさんは、小さな愛犬にレインコートを着せて、かつて津波で浸水した町中でも水に浸かりやすい地域の様子を見に行ったそうです。その上で、昔から地域に暮らしている方が「たぶん大丈夫」と言っていることをリポートしてくれました。その記事を読んだみんなはきっと、Aがわざわざ出かけた先で、お店のおかみさんが「たぶん大丈夫」と言ってくれた言葉にすごく安堵を覚えたと思うのです。

隣町に住んでいる仲間も同じような状況で書き込みました。彼は獅子舞の会の会長で、熱くて厚くて篤いオトコの中の漢のような人です。

「特別警報の為、早朝から会社で待機しております!」

会長が住んでる町も、おそらくそれほど酷い状況ではなかったと思います。それは同じ地域の別の仲間たちからの情報でたぶん間違いありません。しかし、同じような状況で何かことを言うにしても、見た人に与える影響はぜんぜん違う。レストランの友人や獅子舞の会の会長の言葉への配慮に、淡々とした言葉に込められたものに、自分は心から敬意を表したいと思います。

人が生きるかどうかという状況にある時、そのことを理解して、会長さんやレストランの友人のような配慮をもって発言できる人に自分はなりたいと思う。仲間のキツい言葉にも同感する。たしかにネットは自由でオープンな場ではあるけれど、ほんのちょっとした配慮が、人と人の繋がりを変えてしまうことがあると思う。それは、とても大切なことなのではないかと思います。