福島県大玉村との友好協定で知った、マチュピチュ村と日本との縁

旅行者に人気の世界遺産、マチュピチュ遺跡。標高約2400メートルの険しい山の上に造られたインカ帝国時代の遺跡です。

この有名な遺跡がある山の麓、切り立った山と山の合い間に流れる川沿いに「マチュピチュ村」があります。正式名称は「アグアス・カリエンテス村」といい、現地ではこの名で呼ばれることが多いです。

マチュピチュ遺跡を訪れる旅行者の多くが利用する村で私も以前、同遺跡を訪れた際に泊まったことがあります。その村について先日、1本の福島民報の記事を読んで日本とも浅からぬ縁があることを知りました。

記事にも書かれていますが、マチュピチュ村の初代村長というのが野内与吉という日本人だったそうです。野内氏について気になったので調べてみました。

野内与吉氏について

野内与吉氏に関する情報は東京大学総合研究博物館のWEBサイトに詳しい記載がありました。

野内氏は1895年、福島県安達郡大玉村に生まれました。1917年、移民としてペルーへ渡り、農園で働いていましたが、現地での状況が聞いていた話の内容とは異なっていたために1年で辞めました。そして、アメリカ、ブラジル、ボリビアなどを4年ほど放浪すると再びペルーに戻ります。

マチュピチュ村との関わりは、ペルーへ戻った際に国鉄で働いたことによります。現在、マチュピチュへはクスコから鉄道路線がありますが、当時はまだ開通しておらず、野内氏はこの区間の工事に携わりました。そして、ハイラム・ビンガムによるマチュピチュ遺跡の発見から18年後の1929年、路線が完成すると結婚していたペルー人の女性と共にマチュピチュ村に移り住みます。

移住後、野内氏は近くを流れる川から水を引いて畑や水力発電所を作るなど、村の生活水準の向上に貢献しました。さらに1935年、3階建の宿泊施設「ホテル・ノウチ」を建てると、1階を郵便局と交番として無償提供するなどしました。その後、村はホテル・ノウチを中心に発展していったといいます。

これらの行動で人望を集めた野内氏は1939年、村の最高責任者である行政官に就任しました。そして1948年、川の氾濫により村が大きな土砂災害の被害に遭った際に初代のマチュピチュ村の村長に任命されたそうです。

村長を務めた後はペルー国鉄で再び働くためにクスコに移り住み、1969年8月29日、同市で73年の生涯を閉じています。

マチュピチュ遺跡に行く際に

マチュピチュ村は山間の小さな村ながらも、今、世界中から大勢の旅行者が集まっています。街のメインストリートにはホテルやレストランが建ち並び、大変活気に満ち溢れています。

正式名称の「アグアス・カリエンテス」とはスペイン語で「熱い水」を意味し、温泉の街としても知られています。一説によれば、この温泉も野内氏が村の生活環境向上のために木を伐採している時に見つけたそうです。

マチュピチュ遺跡へ向かう旅行者は、古代インカ道を歩いて入らない限り、必ずマチュピチュ村を通ります。100年近く前、未開の土地の開発に貢献した一人の日本人に思いをはせると、この村をより身近に感じることができるかもしれません。

ちなみに、知名度の高いマチュピチュ村にはこれまでに外国の自治体からいくつもの友好協定締結の求めがあったそうですが、同村が初めて友好都市として選んだのが野内氏の生まれ故郷、福島県の大玉村です。マチュピチュ村と大玉村の友好都市締結式は、来月26日にマチュピチュ遺跡で行われるそうです。

マチュピチュ村(アグアス・カリエンテス)

参考WEBサイト

紹介:sKenji