[12月17日という日]ライト兄弟が初飛行に成功

1903年12月17日、ノースカロライナ州キティホーク近郊の砂丘でライトフライヤー号が人類初の動力飛行に成功した

飛行するライトフライヤー(Wikipediaより引用)

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12月17日は旅行好きには忘れることのできない記念日だ。1903年のこの日、アメリカ東海岸、ノースカロライナ州キティホーク南方のキルデビルヒルズ(なんと象徴的な地名だろう)の砂丘から、ライト兄弟の弟・オービルが腹這いになって操縦する12馬力エンジンのライトフライヤーが地上を離れた。

それまでにもモンゴルフィエ兄弟の熱気球や、その後の飛行船の進歩など、人類の飛行への夢は実現されていたが、空気より重たい飛行機が、人工的な動力によって飛行したという点で、ライト兄弟の偉業の放つ光は格別なもの。

午前10時35分、砂丘に設置されたレールから機体が浮かんだ最初の飛行は、わずか12秒。距離120フィート(36.6メートル)。しかし、その日のうちには4回目の飛行で兄ウィルバーの操縦で約1分間、260メートルの飛行を記録した。初飛行の写真として有名なものは、兄弟が持参したカメラを見物人に依頼して撮影されたもので、3回目の飛行時のものだという。

ライト兄弟の飛行からわずか10年ほどの間に、飛行機は大きく進歩する。しかしその発展は「戦争の道具」としてのものだったことは否めない。空を飛ぶという人類の夢を実現したライトフライヤーの初飛行。これから先、飛行機がどんな運命をたどっていくのかは、私たちが築いていく未来にかかっている。

歴史の中の12月17日

▼1843年のクリスマスホリデー 「クリスマス・キャロル」が出版される

A Christmas Carol

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(日付は12月17日とも19日とも。初版本のPrefaceには「December, 1843」とあるようだ。海外のページでも「1943年のホリデーシーズン」との表記が多い)

イギリスの小説家チャールズ・ディケンズの小説「クリスマス・キャロル」が出版される。彼が書き始めたのはこの年の10月されるので、クリスマスホリデーに発行するために、けっこう頑張って書いたものと思われる。「クリスマス・キャロル」はこの年のクリスマスホリデーに出版された書籍として最大の成功を収めた、クリスマスまでの間に6,000部が売れたという。もちろんその後もさらに多くの部数が世界中で売れ続け、数多くの映画化も行われ、クリスマスが持つ本当の意義を世界中のこどもたち、大人たちに伝え続けている。

▼1880年 最後の仇討「臼井六郎仇討事件」が東京・銀座で起きる

筑前国秋月藩士、臼井亘理と妻が同藩の尊王攘夷派に殺害されたのを受けて、当時10歳前後だった子の六郎が12年の時を経て親の仇を討った事件。父を殺害した一瀬直久は、裁判員として各地で勤務する明治政府の役人になっていたが、六郎は上京して山岡鉄舟に剣術を教わりつつ機会を待ち、この日、現在の銀座付近で仇討を決行した。

親の仇を討った後、六郎は警察に出頭。世が世なら「天晴」と称賛されるところだが、明治になって仇討が禁止されていたため六郎は罪人となった。世間は仇をとった六郎に同情的だったと言うが判決は終身禁固刑だった(後に憲法発布の恩赦で出獄)。明治もすでに13年となっていた時代の敵討ちは大きな話題になったという。

▼1908年 九州電気軌道が設立される

九州地区の鉄道事業は、九州鉄道が開設した鉄道路線がすでに国有化(鹿児島本線)されていたが、この路線よりやや内陸寄りに、門司・小倉・戸畑・八幡といった北九州地区の主要都市(1963年に合併して北九州市となるまでは、上記に若松を加えた5市だった)を電車で東西に結ぶのを目的に九州電気軌道が設立された。

後に、1942年2月には小倉市内を路面電車で南北に結んでいた小倉電気軌道を合併、さらに半年後の9月には福岡地区の福博電車、九州鉄道、博多湾鉄道汽船、筑前参宮鉄道を合併して西日本鉄道(西鉄)となった。

合併後使われてきた西鉄のマーク

▼1935年 ダグラス DC-3が初飛行

第二次世界大戦前から戦中、戦後1940年代末まで、世界で最も活躍した旅客機であり輸送機でもあるダグラスDC-3が初飛行に成功。競合する航空機メーカーに対抗するため、先行していたDC-2を拡張・大型化する方針での、約半年という短期間で開発された機体だった。

それにも関わらずDC-3は高い旅客輸送能力と経済性を実現した機体として、第二次世界大戦勃発前にはベストセラーとして全米の航空会社で使用されるようになっていた。また米軍はDC-3を輸送機「C-47 スカイトレイン」として採用し、大量生産した。連合軍総司令官で後にアメリカ大統領になるアイゼンハワーが、連合軍勝利に貢献したものとして、C-47とジープとバズーカ砲を上げたのは有名な話だ。

「ベルリン大空輸」でテンペルホーフ空港で物資を降ろすC-47輸送機

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戦時中にC-47輸送機として大量生産されたDC-3は、冷戦で封鎖されたベルリンへの物資輸送でも活躍した。航空機の歴史上重要な機体であるのみならず、世界史を動かした飛行機だったと言える。

DC-3には興味深いエピソードが数多い。時代は遡るが、この飛行機の性能に注目した日本軍は対米開戦前にDC-3のライセンス生産契約を締結し、戦争中も引き続き「零式輸送機」として生産を続けた。また、この飛行機をレンドリースとして供給されたソ連でも、大戦中にライセンス生産を行っており、戦中戦後で敵対関係にあった日米ソの3カ国が同じく生産を行った稀有な機体でもあった。

▼1945年 衆議院議員選挙法改正で婦人参政権と選挙権年齢引き下げ

日本国憲法が制定される以前に行われた衆議院議員選挙法の改正。それまで選挙権は満25歳以上の男子、被選挙権は満30歳以上の男子だったものが、それぞれ満20歳以上の男女、満25歳以上の男女となった。翌年1946年4月に行われた第22回衆議院議員総選挙で実施された。この総選挙は帝国憲法下で行われた最後のものとなった。

▼1987年 千葉県東方沖地震

九十九里浜の海岸線にごく近い場所、ほぼ陸域といえるポイントを震央とし、やや深いところ(深さ58km)で発生した地震。地震の規模はM6.7で、フィリピン海プレート内部の地震と考えられている。勝浦市、千葉市、銚子市などで震度5、茨城県から静岡県まで広い範囲で震度4を記録した。山武郡、長生郡、市原市を中心に死者2人、負傷者144人、住家全壊16棟の被害が生じた。

▼1997年 介護保険法が公布される

この日が誕生日

◆1630年 貝原益軒
福岡出身の儒学者・本草学者(博物学者)。福岡黒田藩に勤めるが2代藩主・黒田忠之の勘気にふれて浪人するも、自費で長崎に向かい勉強する。さらに江戸、京都にも足を延ばす(その後再び福岡藩に勤める)。「大和本草」は益軒は薬用の植物・動物・鉱物のほか農産物、さらには農業には役に立たない雑草までを網羅した博物学全書ともいえるもの。また腹八分目などの生活の知恵を記した「養生訓」は、本草学の知識と儒学が一体化した、生きる教育書であり哲学書と評価されている。

養生訓

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◆1900年 勅使河原蒼風
華道家。いけばな草月流の祖。華道家の父から幼少の頃より指導を受けるが、型にはまった華道を否定し父親と決裂。1927年、いけばな草月流を創立する。翌年には銀座千疋屋で第1回草月流展を開催。タイム誌が「花のピカソ」と評すなど、国内よりも海外で先に高い評価を得た。いけばなに留まらず彫刻、絵画、書など幅広く活動したことから総合芸術家との評価もある。

◆1941年 アレクサンダー・ノイマイスター
ドイツ出身のインダストリアルデザイナー。鉄道車両のデザインで知られるが、幅広い分野で活躍しているという。日本ではJR西日本の新幹線500系のデザインで知られる。

500系新幹線。東海道山陽新幹線「のぞみ」としての運行は終了したが、現在も山陽新幹線・九州新幹線の「こだま」として運行されている。やっぱりカッコいい

◆1958年 假屋崎省吾
東京出身の華道家。いけばな草月流の勅使河原宏に師事する。

◆1966年 有森裕子
岡山市出身のマラソンランナー。バルセロナオリンピックで銀、アトランタオリンピックで銅メダルを獲得した。

この日亡くなった人たち

・1938年 小川芋銭
小川芋銭(うせん)は茨城県出身の日本画家。実家は元々牛久藩の大目付を勤める武士だったが、明治維新後の廃藩置県で農家となる。朝野新聞で挿絵などを描いていたが本格的な画家を目指す。
芋銭(うせん)という珍しい雅号には「何とかして私も自分の描いた絵が芋を買う銭になればいいが」という思いが込められていたという。
牛久沼のほとりで農業しながら画業も続けた。カワウソやキツネ、ことに河童を数多く描いたことでも知られている。

小川芋銭「河童百図<白藤源太>」昭和12年 | 茨城県近代美術館

www.modernart.museum.ibk.ed.jp

・1991年 相田みつを
栃木県足利市出身の詩人、書家。

・2006年 岸田今日子
東京生まれの女優。劇作家岸田國士・秋子夫妻の次女。数々のテレビドラマ、舞台、映画に出演。アニメ「ムーミン」のムーミン役など声優としても活躍した。数々のテレビ番組でのナレーションも印象的だった。

・2011年 金正日
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政治家。死去するまで朝鮮労働党中央委員会総書記、国防委員会委員長、朝鮮人民軍最高司令官、党中央軍事委員会委員長を務めた。