飛行機には天使と悪魔が一緒に乗っている

12月のノースカロライナの平均気温は、新潟とほぼ同じ。初飛行に臨んだ彼らにとって風は冷たくなかっただろうか、あるいは寒さを感じることさえないくらい熱い思いがたぎっていたのか。

ノースカロライナ州キルデビルヒルズの砂丘における初飛行(1903年12月17日)。操縦者はオーヴィル。横にいるのはウィルバーで、離陸滑走の間、地面に触れないように支えていた翼端を離している。この飛行を見ていた観客はわずか5人であった。(Wikipediaより引用)

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アメリカ中西部オハイオ州在住のライト兄弟が、飛行実験の場所としてわざわざ東海岸のノースカロライナ州キティホーク近郊のキルデビルヒルを選んだのは、この季節に風が強いという科学的な理由に基づくとされている。風洞実験を繰り返し行い翼の形を検討する中で、彼らが飛行機を進空させるために必要な条件を詳しく理解していったのは間違いない。飛行機を上に持ち上げる揚力は、翼の上下を流れる風によって生まれる。であれば、たとえエンジンを搭載しても、風の力を利用した方が有利である――。

多くの高名な学者や実業家が動力飛行に挑戦しては失敗を繰り返していた中、名もない自転車店を経営する兄弟は、自作の装置で入念な実験を繰り返し、翼形はもとより操縦の方法、さらにはエンジンまで自作してライトフライヤー号を製造した。さらに飛行に適した条件をも考慮した上で1903年12月17日の飛行に臨んだ。冷静な科学的思考こそが彼らを成功に導いたに違いないだろう。

人類の初飛行距離はわずか120フィート

午前10時35分、砂丘に設置されたレールから機体が浮かんだ最初の飛行は、わずか12秒。距離36.6メートル。しかし、その日のうちには4回目の飛行で兄ウィルバーの操縦で約1分間、260メートルの飛行を記録した。初飛行を撮影したものとして有名な上の写真は、兄弟が持参したカメラを見物人に依頼して撮影されたもので、3回目の飛行時の離陸の瞬間だという。

ライトフライヤーの構造は、上下2枚の主翼の前にやはり2葉の水平安定板、主翼の後ろにこれまた2葉の垂直安定板を配する形になっている。主翼の中央に置かれたエンジンが生み出す動力はチェーン駆動で主翼後縁に後ろ向きに付けられたプロペラを回す。

飛行機の技術が進歩したのちの分類では、ライトフライヤー号の機体はエンテ型(前尾翼)で、プロペラはプッシュ式ということになる。エンテ型とプッシュ式のプロペラの相性が良いことはよく知られていて、この点でもライト兄弟の先見の明が見て取れる。これもおそらく自作した風洞実験の繰り返しの中で見いだされて行ったものだろう。

さらに特筆すべきは、プロペラを回す左右のチェーンのうち、左側が8の字に掛けられていることだ。これは、左右のプロペラを逆回転させることでカウンタートルク(プロペラの反対方向に機体を回転させようとする力)を打ち消そうという意図の表れに他ならない。人類の初飛行を実現した飛行機にして、ライトフライヤー号は多くの新機軸を実現していた。

特許紛争に忙殺される間に

かなり先進的な技術を実現した機体であった反面、ライトフライヤー号には、その後のオーソドックスな飛行機で必須のものとして取り入れることになる重要ないくつかの技術が欠落していた。その最大のものがエルロンやフラップといった補助的な小翼だ。

飛行機の窓の外から翼を見ていると、とくに着陸の時などには、主翼の後端部分で小さな翼がパタパタ忙しそうに動かされるのが見られるだろう。飛行機の微妙な姿勢やスピードをコントロールするために、最近の旅客機では10組を超える小翼が装備されている。ところがライト兄弟の飛行機にはこの小翼がない。

ライトフライヤーでは主翼にひねりを加えることで、機体を横方向にロールさせる操縦法を実現していたからだ。この方法も優れたアイデアではあるが、操縦は非常に難しくなる。そもそもエンテ型の機体そのものが、今日の一般的な機体と比べてアンバランスなものなので、彼らの飛行機がさらに発展していくためには、根本的な改良が不可欠だった。しかし、彼らにはその時間も余裕も与えられていなかった。

それは、初飛行の後すぐに特許紛争に巻き込まれ、その対応に忙殺されることになるからだ。初飛行の成功者による改良が遅々として進まぬ中、とくにヨーロッパでは飛行機の技術が飛躍的に進歩していく。

1906年に初めてヨーロッパの空を飛んだブラジル出身のアルベルト・サントス・デュモンの飛行機は、ライトフライヤーと同様のエンテ型だったが、同年から翌年に掛けて飛行実績を積んで行ったエスノー・ペルトリの飛行機は、機体の前にエンジンとプロペラがあり、エルロンも実用化した。1909年には、プロペラこそプッシュ式ながら、現在の飛行機のほぼ原形といえるファルマン機がアンリ・ファルマンによって発明され量産までされるようになった。ファルマン機は多くの国に輸出され、徳川好敏大尉らの操縦で日本の空をも飛んでいる。

1909年式ファルマンIII

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第一次大戦までの10年で

ライト兄弟の初飛行が1903年末。それから10年もたたない間に、ドーバー海峡横断、高度1,000メートルに到達、国際的な航空レースの開催と飛行機が長足の進歩を遂げていった原動力が「軍事」からの要請であったのは残念ながら間違いない。

日本での飛行機初飛行が陸軍の手で行われたことを見るまでもなく、ヨーロッパでも飛行機の進歩は軍と密接な関係を持っていた。そもそもライト兄弟が特許紛争に巻き込まれたのも、飛行機が戦争の道具として高く売れると踏んだ競争者たちがいたからだ。

第一次世界大戦が勃発するのは1914年。その前年には初めて機関銃が飛行機に搭載されている。第一次世界大戦に当たっては、ドイツは1,000機以上の飛行機で空軍を組織した。自機の機関銃でプロペラを撃ち抜かないよう、エンジン回転に同調する発射装置が開発されたことで、戦闘機はスピードと運動性を飛躍的に高めた。ヨーロッパの戦場では、飛行機は偵察、戦闘、爆撃などに欠くことができない兵器となっていった。

主戦場から遠く離れたアジアでも、中国の青島(当時ドイツが支配していた)に対する日本軍の攻撃で早くも飛行機が実用化されている。それどころか第一次大戦の前年、日本軍は初の水上機母艦まで装備し、この青島の戦いに参加させているのだ。

ライト兄弟の初飛行から10年余りで、飛行機はその性格を大きく変えた。青空を鳥のように優雅に飛びたいという夢は、爆弾や弾丸を空から降らせる恐怖の兵器として発展していくことになってしまった。

それでも飛行機に乗るたびに、どこか心が躍るのはなぜだろう。一面の雲海から上っていく太陽を旅客機の小さな窓を覗き込むようにして見つめる時、神々しいものさえ感じてしまうのはなぜだろう。

飛行機には天使と悪魔が一緒に乗っている。たぶんそれは間違いない。人類の夢であった動力飛行が実現された12月17日、この日をただ偉業をたたえるだけの記念日にしてはいかんだろう。およそ100年前、人類が翼を手にしたことのその意義は、これからの未来に託されているのだから。