350年後の謝罪

「それでも地球は動いている」。天文学者でもあったガリレオ・ガリレイが、17世紀に自説を撤回させられた宗教裁判でつぶやいたとされる言葉です。裁判で有罪となったガリレオは亡くなるまで軟禁状態におかれ、死後も長い間判決は変わりませんでした。しかし、22年前の今日10月31日に、裁判が誤っていたことを時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が謝罪しました。ガリレオの死後350年後のことです。

ガリレオ・ガリレイについて

ガリレオ・ガリレイは1564年にイタリアのピサで生まれました。医師を志してピサ大学に入学するものの数学に興味を持ち、卒業後は大学で数学を教えていたそうです。

1609年、ガリレオはオランダで発明された望遠鏡を改良して天体の観測を行います。その当時、「地球は宇宙の中心にある」という天動説が一般的でしたが、観測の結果、ガリレオは15~16世紀の天文学者コペルニクスが発表した「太陽が中心にあり、地球はその周りをまわっている」という地動説が正しいことを確信し、研究結果を発表しました。

しかし、その頃のイタリアではカトリック教会が大きな力を持っており、聖書に地球が世界の中心であるという表現があるために、地動説を唱えたガリレオは異端とされ、2度の宗教裁判を受けて有罪になっています。

1度目の裁判の時、ガリレオは地動説を唱えてはならないと注意を受けた程度で済みましたが、2度目は終身刑の宣告が下されました。刑はその後、減刑されたものの、以降亡くなるまで軟禁状態におかれ、1642年、イタリア・フィレンツェの郊外にあるアルチェトリで77年の生涯を閉じています。

ヨハネ・パウロ2世について

ヨハネ・パウロ2世は1920年、ポーランドのワドビチェで生まれています。

8歳の時に母を、11歳の時に兄を失い、父によって育てられたそうです。1938年にポーランドのクラクフにあるヤゲロニカ大学に入学し、ポーランド文学を専攻するものの翌年、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、大学は閉鎖されています。1941年には、育ててくれた父が亡くなっています。

大学閉鎖後、ヨハネ・パウロ2世は生計とドイツ軍による連行を避けるために、化学工場の石切り場で働きながら勉学と演劇活動に打ち込んだそうです。1943年に地下神学校に入学し、1946年11月1日に司祭の聖職位を授けられています。その後、司教などを経て1978年10月16日、第264代目のローマ教皇に選出されています。イタリア人以外の教皇は実に450年ぶりであり、ポーランド人の教皇は初めてだったそうです。

謝ることの大切さ

亡くなった後も長らく有罪判決を受けたままガリレオ・ガリレイでしたが、1971年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、ガリレオの裁判に関する調査委員会を発足させることを表明しました。そして、81年にガリレオ事件の調査委員会を設置して調査が始まりました。検証は10年以上の歳月をかけて行われ、1992年10月31日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が裁判の誤りを認めて謝罪しました。

謝罪を行ったヨハネ・パウロ2世は、2005年4月2日、84歳で亡くなりました。生前、「空飛ぶ教皇」と称されるほど世界各地を巡り、多くの人に親しまれていた教皇は今年4月にカトリック教会における最高の崇敬対象である「聖人」となっています。20世紀に8名の教皇がいましたが、ヨハネ・パウロ2世の他に聖人になった教皇は1名しかいません。しかも、死後9年で聖人と認められるのは異例の早さとのことです。

聖人として認められるには、その人物により不治の病が治ったなど2つの奇跡を起こすことが必要とされるそうですが、ヨハネ・パウロ2世の人徳による所も大きいと言われています。ヨハネ・パウロ2世はガリレオ以外にも、カトリック教会の過去の出来事について多くの誤りを認めた教皇でもあったそうです。時になかなかできないのが謝罪かもしれません。それを実行できたのはヨハネ・パウロ2世の徳の高さによる所が大きかったのかもしれません。

10月31日の今日。謝ることの大切さについて改めて考えると共に、まずは身近な人に素直に謝ることを始めてみる日にするのもいいかもしれないですね。

参考WEBサイト

Text:sKenji