ナチュラリストは語りかけ続ける
「放射能汚染された自然の前では、キャッチ・アンド・リリースも生物多様性も、河川環境の保全もヘッタクレもない。あまりにもきびしく、後戻りができない現実を前に無力感におそわれる。…しかし、だ。釣り人は本当に無力だろうか。」と2013年8月にぼくは書いた。
繰り返すけど、淡水魚の放射能をいくら測っても、私たちが生きているあいだは汚染は消えない。じゃあなんで測らなければいけないのか、なんで記録するのかと言えばこれ以上の汚染を起こさない、起こさせないためです(2013/10/29)
たぶん淡水魚の放射能汚染はこれから20年くらいは、劇的には落ちない。放射能汚染はだらだらと続いていく。釣り人は放射能汚染に対して無力だが、2011年の原子力発電所の事故で日本の山と川と湖と淡水魚が汚染されたことをずっと忘れないことはできる。(2013/11/29)
面識はないけれど、自分はこのブログを書いている人のまっすぐさを知った。
繰り返しになるけれど、ブログの作者はナチュラリストだ。そして川や湖の釣りを愛する人で、だからこそ今後数十年以上、かつて自分達が親達の世代とともに楽しんだ川での遊び(=それは現代人の誰もに通じる、本質的で根源的な遊びの楽しさに他ならぬ)を、これからもずっとつなげていきたいと考えてきた人だろう。都会人が、自然からのプレゼントの素晴らしさを知ることで、都会とか田舎とかの範疇を越えて、いい未来を作りたいと希ってきた人だと思う。
冬の家族的レジャーであるワカサギ釣りが解禁となった。その背景に何があるのか。ワカサギを食べて剥製以外は持ち出し不可となったトラウト類と人間が同じであっていいのかどうなのか。
トラウトがどれだけワカサギを食べているか知らないが、たかが一回の釣りで釣った程度のワカサギを食べたって……という考えが正しいのかどうか。いや正しいかどうかなんて誰にも今は言えないのだ。うん、言える人はいない。だからこそ、お上が「OK」と言ったとかではなく、自ら考えるしかない。
面倒くさいこと? 苦しいこと? 大変なこと? 自分たちにはできそうもないくらいに難しいこと? いいえ、それが本来自分たち人間がしてきたこと。――「フライの雑誌社」のブログは、そのことを教えてくれているようにも思えるのだ。
俺たち、立ち位置としては、帰るべき場所が必ずあるはずだと。
文●井上良太