1999年9月30日、東海村JCO臨界事故が発生
高速増殖炉(実験炉)常陽の燃料製造工程で、定められた手順・器材が守られなかったために発生した臨界事故。作業員2名は致死レベルの放射線を浴び、悲惨な闘病生活の末に死亡した。また、核物質を扱う施設にも関わらず防護措置がほとんどとられていなかったため、周辺住民を含む667名が被曝する大惨事となった。
この事故は日本の原子力史上初めて刑事訴追が行われることになった。2003年に結審・確定した判決では、事故の原因はもっぱら作業員の逸脱行為(マニュアルを守らない行為)によるものとされたが、核燃料を製造する企業で働く作業員が、逸脱行為の危険性を意識していなかったのか、また逸脱行為を行った原因や背景については明らかにされなかった。
高速増殖炉常陽のための燃料製造は、年に1回程度のまれな作業だったという。通常の原子炉用の燃料製造では、同様の工程で使用するウラン溶液の濃度は5%ほどだが、常陽用では20%と高かったことが、ルール違反の攪拌容器に溶液をバケツで投入していく中で臨界を引き起こしたと推察されている。
しかし、一定量以上のウランが集積することで臨界の危険が生じる危険性があるため、この作業は1バッチごとの処理(決められた小ロットでの製造)を行うことが、国による設備認可の際に条件になっていた。
しかしながら、発注者は定められたバッチ処理の回数よりも少ない本数の容器での納入を求め、しかも均質な品質を求めていたという。このことが、顧客ニーズに応えるべく現場で作業を改める「カイゼン活動」として逸脱行為が行われたのではないかとの指摘もある。
歴史の中の9月30日
▼1399年 ヘンリー4世が王位につきランカスター朝を開く
イングランド王リチャード2世にランカスター領を没収されたヘンリー・ボリングブロクは反乱を起こし、遠征中のリチャード2世を捕える。議会はリチャード2世の退位とヘンリーの王位継承を議決し、ヘンリー4世としてイングランド王となった。
シェークスピアが描いた「ヘンリー4世」は、架空のトリックスター「フォルスタッフ」が登場することで、シェークスピア史劇の中でも人気の演目のひとつ。
▼1862年 ビスマルクの「鉄血演説」
プロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクが下院予算委員会で有名な演説が行われた。ビスマルクが主張したのは、統一ドイツのための軍備拡張の必要性。
バイエルンやバーデンなどの小国に分立していた当時の状況を踏まえ、必要なのは小国それぞれの自由主義ではな。対外的に強力なドイツ国家を築くためには、鉄(武器)と兵力(血)こそが重要だと訴えた。
▼1917年 大正6年の大津波
十五夜の夜、950ヘクトパスカル規模の非常に発達した状態で関東を通過した台風は、暴風による被害もさることながら、ちょうど満潮の時間に重なったため、東京の下町や利根川、荒川、多摩川などの河川沿いを中止に高潮による大水害が発生した。
2階3階の家は暴風によって「震動して人々安き心なく」、床上浸水に避難しようとすると「屋根瓦の飛散危険にて外出するあたわず」と、避難しようにも屋外に逃げられない状況が伝えられている。(カッコ内は東京日日新聞から引用)
避難が遅れた人々は通常より+3メートルという津波のような高潮に襲われ、死者行方不明者1,324名、全半壊戸数55,733戸(いずれも全国での被害)という大災害となった。「大津波」と呼ばれるのは、その高潮の凄まじさによるものかもしれない。
▼1943年 絶対国防圏が定められる
米英蘭中との太平洋戦争の緒戦で占領地域を拡大した日本は、連合軍側の攻勢に押し返されつつあった。南洋方面の資源を戦争遂行のために不可欠と考えた政府・大本営は、第2回戦争指導大綱(今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱)で、千島列島からサイパン、ニューギニア西部、インドネシア、ビルマへとつながる広大な地域を「絶対国防圏」と定めた上で、その後の戦争指導方針について、天皇臨席の御前会議で決定した。
しかし現実には、同年南太平洋のマキン島、タラワ島で日本軍守備隊は全滅、海軍の拠点だったラバウルは孤立、同年暮には学徒出陣が始まる。絶対国防圏の謳い文句とは裏腹に続く負け戦の果てに1944年6月にサイパン島は陥落し、太平洋戦争を始めた東條内閣は総辞職するのだった。
▼1946年 財閥解体で三井・三菱・安田の各本社(持株会社)が解散
侵略戦争を進める経済的基盤と目され、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって進められた財閥解体政策で、三井・三菱・安田の3財閥が解散した。財閥解体で1時指定されたのは、3社のほかに住友本社と旧・中島飛行機である富士産業の計5社で、それぞれ1946年中に解散・解体した。
財閥解体は5次指定まで行われ、分割・解体は独占寡占企業や地方財閥にも及んだ。
▼1954年 初の原子力潜水艦ノーチラス就役
オウムガイというユーモラスな名前からはほど遠い世界初の原子力潜水艦。潜水艦は水中での隠密行動をできるだけ長時間続けられた方が有利だが、ディーゼルエンジンや電池では限界がある。そこで燃料や酸素の補給が不要となる原子力機関が利用されることになった。
しかし、第二次世界大戦終結時には、原子力や核といえば兵器としての原爆を意味するものでしかなかった。当時の原子炉は原爆に使うプルトニウムを作るためのもので、その過程で発生する膨大な熱は捨てられていた。
その熱を使って蒸気を発生させタービンを回そうというアイデアが生まれたわけだが、その実現のために開発されたのが加圧水型原子炉だった。(沸騰水型ではなく加圧水式が採用されたのは、動揺する艦艇で利用することが考慮されたともいう)
ノーチラスは1952年に起工、54年進水、同年9月30日に米海軍潜水艦として就役した。55年には初の原子力による航海を成功させ、58年には潜水したまま北極点を通過するなど、原子力潜水艦の可能性と原子力潜水艦を保有する米国の優位を世界に示す船になった。
しかし、ノーチラスが果たしたのは米国の軍事力を誇示する潜水艦としての使命だけではなかった。もうひとつの大きな使命は、ノーチラスの就航に先立つ1953年に、ドワイト・アイゼンハワー米大統領が国連総会で提唱した「Atoms for Peace」を実現する原子力発電の実証実験としての成果を確立することだった。
ノーチラスが行った原子力機関による航海の成功は、そのままウェスティングハウス・エレクトリック製の原子炉の実用性を証明するものとして受け入れられた。地上で電気を作るために製作された同社の加圧水型原子炉は、ノーチラス用に開発された技術を踏襲するものだったという。
もっぱら原爆製造のための装置だった原子炉を動力源としたノーチラスは、長期間海中に潜み核ミサイルを発射する潜水艦という新たな兵器の先駆けとなったのみならず、世界に原子力発電を広めた存在でもあった。
だから、こう言うことができるだろう。原子力発電は原潜から生まれたと。
この日が誕生日
◆1917年 朴正煕
韓国の軍人、政治家、1963年~1979年に韓国大統領だった。現・韓国大統領の朴槿恵は次女
◆1932年 五木寛之
日本の小説家。「さらばモスクワ愚連隊」「青春の門」「大河の一滴」など
◆1932年 石原慎太郎
日本の政治家、小説家。「太陽の季節」「NO」と言える日本(盛田昭夫との共著)
◆1950年 内田樹(たつる)
日本の思想家、武道家。「レヴィナスと愛の現象学」「子どもは判ってくれない」「内田樹による内田樹」
この日亡くなった人たち
・420年 聖ヒエロニムス
ダルマチアに生まれたキリスト教の聖職者。聖書をラテン語に訳したことで知られる。「荒野の聖ヒエロニムス」といった画題で多くの画家に描かれてきた
・1913年 ルドルフ・ディーゼル
ディーゼルエンジンで知られるドイツの発明家。謎の死を遂げる
・1955年 ジェームズ・ディーン
アメリカの俳優。「エデンの東」「理由なき反抗」「ジャイアンツ」。自動車事故で死去
・1985年 チャールズ・リヒター
アメリカの地震学者で地震の規模の指標であるマグニチュードを考案した。地震のマグニチュードはリヒター・スケールとも呼ばれる。
・1997年 藤田信雄
太平洋戦争中の昭和17年9月、伊25潜水艦から発進した零式小型水上偵察機で米本土(オレゴン州)を爆撃する。戦後はアメリカ・ブルッキングス市から招待された