唯一、沢村賞の選考基準を満たしていた金子千尋
2013年、東北楽天ゴールデンイーグルスは、絶対的エース・田中将大を擁して悲願の日本一を決めた。
田中の成績は24勝無敗という、近年見たこともないような驚異的な数字である。楽天の成績は82勝59敗3分で貯金23。仮に単純に、田中の成績を抜きに考えれば、楽天は借金1で終わっていたことになる。それだけ、田中の功績が大きいのは言うまでもない。
楽天・星野仙一監督は、優勝決定試合となった9月26日対西武戦の最終回に、本来は先発投手である田中を登板させて試合を締めくくった。CSファイナルステージ10月21日対ロッテ戦、日本シリーズ第7戦11月3日対巨人戦も、最終回は田中の登板で締めくくることにこだわった。
本来は先発投手である田中を、変則的に起用したこの継投自体に賛否はあったが、しかし、この采配も理解はできる。
もちろん、選手個々の力があっての優勝だ。それでも、田中抜きにして楽天の優勝、日本一は語れないだろう。それほど田中ありきのシーズンだった。
田中は10月28日の「沢村賞」選考委員会において、2度目の沢村賞を受賞した。この他の追随を許さない圧倒的な成績ゆえ、議論するまでも無かったのだそうだ。満場一致で決まったと報じられていた。
しかし、そんな目立ちすぎた田中の陰に隠れつつ、唯一沢村賞の選考基準をすべて満たしていた投手がいる。オリックス・バファローズの金子千尋だ。
ここで確認をしておくと、田中は驚異的な成績を残したものの、沢村賞の選考基準をすべて満たしていたわけではない。ただ、あくまで“基準”とのことなので、すべてを満たす必要もない。実際に、すべてを満たさずとも受賞した投手は過去に何人も存在する。
ではここで、沢村賞の選考基準に則って、田中と金子の今シーズンの成績を比較してみたい。
登板 完投 勝利 勝率 投球回 奪三振 防御率
田中将大 東北楽天 28 8 24 1.000 212 183 1.27
金子千尋 オリックス 29 10 15 .652 223 200 2.01
沢村賞の受賞基準 25~ 10~ 15~ .600~ 200~ 150~ ~2.50
こうして比較すると、金子よりも田中の成績の方が優れているのは、誰もが認めるところだろう。しかし、選考基準においては、4つの項目で金子が田中を上回っている。田中のインパクトは大きすぎたが、金子だって近年まれに見るような成績を残しているのだ。
だからこそ、沢村賞の選考基準をすべて満たした金子を差し置いて、すべて満たしていない田中が選ばれた点には、いささか疑問を感じてしまう。
沢村賞のなりたちと選考基準
改めて、沢村賞の成り立ちと、選考基準について考えてみたい。
そもそも沢村賞(正式には「沢村栄治賞」)とは、剛球投手としてプロ野球の黎明期を支えるも、27歳の若さで戦死した沢村栄治投手(巨人軍)の功績をたたえて制定されたものだ。沢村の死後、当時の野球雑誌『熱球』が私的に「沢村賞」を企画。これが、世に浸透したことで、後に先発投手の栄誉ある賞として公式に認定された歴史がある。
当時は雲泥の実力差だったメジャーリーガーを相手に1失点完投をはたすなど、戦前の球界ではシンボル的存在だった沢村だが、特に圧巻なのは1937年春季のシーズン成績だ。
登板 完投 勝利 勝率 投球回 奪三振 防御率
沢村栄治 東京巨人軍 30 24 24 .857 244 196 0.81
全56試合の春期シーズンに30試合登板し、24勝4敗という驚異的な成績あげ、巨人軍の優勝に貢献している。いずれの数字も圧倒的であり、先発完投型の理想形のような投手だったことが伺えるだろう。現行の沢村賞の選考基準も、おそらくこのシーズンの沢村の成績を参考にしていると思われる。
もともと曖昧だった沢村賞の選考基準
東北楽天・田中の「沢村賞」受賞に話を戻す。
先ほど、沢村賞の受賞基準をすべて満たしていない田中が選ばれ、すべて満たしている金子が選ばれない点には、いささか疑問を感じると述べたが、だからと言って、今さら「田中ではなく金子が選ばれるべきだ」と言いたいわけではない。
ただ、あくまで参考程度の基準ならば、そもそもその基準は必要なのかという点で疑問を感じるのだ。
なぜなら、今年の田中と金子に限らず、沢村賞の選出については、歴史的に【その時々の曖昧な要素が絡んだ選考になっていることがある】からだ。
最初に断わっておくと、この沢村賞は1981年まではマスコミによる記者投票、1982年以降は選考委員による選出に変わった。その際に「選考基準を満たしているかどうか」を、参考にするようになったとされている。
つまり、1981年までは、実際にコレといった選考基準のないなかで選ばれていたわけだが、ここではその歴史を追ってみたい。
●1981年、江川と西本の場合
沢村賞の選考基準を考えるにあたり、まず見ておきたいのはやはり1981年だろう。
1981年のセリーグは、巨人が圧倒的強さを見せて優勝した。特に、江川卓、西本聖のダブルエースの存在感が大きく、全73勝のうち2人だけで38勝の荒稼ぎを見せた。そんな2人の成績を並べてみる。
登板 完投 勝利 勝率 投球回 奪三振 防御率 基準
江川卓 巨人 31 20 20 .768 240 221 2.29 7/7
西本聖 巨人 34 14 18 .600 257 126 2.58 5/7
現行の沢村賞の受賞基準 25~ 10~ 15~ .600~ 200~ 150~ ~2.50
(※ 1981年時点では選考基準は未設定)
上を見てもわかるとおり、2人ともエース級の働きをしている。ただ、後に設定される沢村賞の選考基準を参考に見てみると、江川は基準をすべて満たしているのに対し、西本は奪三振と防御率の項目で基準を満たしていない。どちらも優秀ながら、優劣をつけるとしたら江川に軍配が上がるだろう。
しかし、沢村賞は西本が受賞した。
ここで議論されたのは、江川の人格だ。
「空白の一日事件」で巨人に強引に入団した経緯のある江川について、世間の評価は最悪だった。そのため、江川は人格に問題ありとして、選考から漏れたのである。記者会見においては、「人格が(沢村賞に)値しない」とはっきり言われてしまったほどだ。事件そのものは1978年に起こったものだったが、1981年になってもその悪いイメージが付きまとっていたことが伺える。
一方、同じく巨人のエース格であった西本は、江川本人と巨人球団の身勝手な行為で入団してきたことを快く思っていなかったとされており、当の本人はもちろん、世間もまた、江川を悪役としてライバル視していたとある。成績としては明らかに江川が優位でありながら、それでも西本が受賞したのには、あからさまな“理由”があったのだ。
この選考がなんとも「選ぶ側の気分しだい」に思えてならない(事実、そのとおりなのだろうが)。選考の理由として「人格」が挙げられているが、なんとも曖昧な印象を受けた。
しかし、このことがきっかけとなり、この年限りで記者投票は廃止。翌年以降は沢村賞の選考基準が設けられ、選考委員会が組織されることになる。
ちなみに、翌1982年も江川は優秀な成績を残し、新たに設けられた選考基準もすべて満たしていたが、同じく選考基準をすべて満たしていた北別府(広島)が沢村賞を受賞した。
●1974年、星野の場合
「選ぶ側の気分しだい」という意味で、もうひとつ印象的なのが1974年の沢村賞。今年、楽天日本一という偉業を果たした監督でもある星野仙一だ。この年の星野は、現行の選考基準に則って見れば、7項目中3項目しか満たしておらず、他の受賞者に比べて極端にパンチが弱い。もっとも、当時は選考基準自体存在しなかったが、この年の星野の受賞は、他の沢村賞受賞者と比較しても特殊だ。
以下、1974年時の星野の成績である。
登板 完投 勝利 勝率 投球回 奪三振 防御率 基準
星野仙一 中日 49 7 15 .625 188 137 2.87 3/7
現行の沢村賞の受賞基準 25~ 10~ 15~ .600~ 200~ 150~ ~2.50
(※ 1981年時点まで選考基準は未設定)
決して悪い成績ではない。しかし、完投数、投球回数、奪三振数、防御率と、半分以上の項目で、現行の沢村賞の選考基準を満たしていないのだ。やはり、歴代の受賞者と比較しても、見劣り感は否めない。
では、その星野がなぜ沢村賞を受賞できたかと言えば、星野はこの年、チーム事情で救援投手も務めていたからだ。
当時のプロ野球界は、投手について分業制が浸透しつつある頃で、リリーフ投手の役割が徐々に認められつつあった時代である。星野は先発投手として17試合に登板した一方、リリーフ投手としても32試合に登板している。その中で15勝を上げると同時に、抑え投手にとしても10セーブを記録しているのだ。この年から設けられた「最多セーブ投手」として、星野は初代最優秀救援投手にも選ばれている。
極め付けは、この星野の大車輪の活躍もあり、中日は20年ぶり2度目の優勝を果たし、同時に巨人のV10の夢を打ち砕いたのだ。V10に注目が集まる一方、巨人が当たり前のように優勝するセリーグに、うんざりしていた他球団ファンも多くいただろうことは想像に難くない。だからこそ、星野の姿はさぞ痛快に見えたことだろう。
実際に当時の星野は、記者投票で多くの支持を集め、沢村賞投手に輝いたのである。
この年の星野の選出に異論を唱えるつもりはないが、この当時もやはり「選ぶ側の気分しだい」だったと言えるだろう。
今もなお、どこか曖昧な沢村賞の選考基準
1982年に沢村賞の選考基準が設けられて以降、全7項目をクリアした投手は2013年現在で10人になる。全項目をクリアしていながら沢村賞に選ばれなかった例は過去に4度あり、その1人が1982年の江川になるのだが、その2例目となってしまったのが2008年のダルビッシュ(日本ハム)だ。
●2008年、ダルビッシュと岩隈の場合
この年のパリーグはまさにダルビッシュと岩隈(楽天)のためにあったと言っても良かった。それほど、2人の成績は図抜けていた。
登板 完投 勝利 勝率 投球回 奪三振 防御率 基準
ダルビッシュ ハム 25 10 16 .800 200 208 1.88 7/7
岩隈久志 楽天 28 5 21 .840 201 159 1.87 6/7
沢村賞の受賞基準 25~ 10~ 15~ .600~ 200~ 150~ ~2.50
数字を見ると、2人ともエース級の働きを見事にこなしているのは言うまでも無いのだが、同時に2人の特性の違いもハッキリと現れている。
日本ハム時代のダルビッシュは、タフな肉体と豊富なスタミナを活かした典型的な「先発完投型」だった。伸びのあるストレートと落差のある変化球を武器に、“狙って三振を取れる”のも強みである。
一方の岩隈も、狙って三振を取れる投手ではあったが、基本は“打たせて取る”タイプ。完投数も少なくはないが、ダルビッシュほど先発完投にこだわる性格でもなく、チームは継投策で確実に勝利をものにしていった。
結果、完投と奪三振の2項目ではダルビッシュが岩隈を圧倒。しかしその一方で、勝利数では岩隈がダルビッシュを5つ上回った。互いに負け数は4つだったため、岩隈の方が5つ多くチームに貯金をもたらしたことになる。
そして、沢村賞を受賞したのは岩隈になった。
甲乙つけがたいなか、土橋正幸・選考委員長は決め手として「発展途上の楽天での貢献度」「被本塁打数の少なさ(3本、ダルビッシュは11本)」の2点を挙げている。しかし、この年のダルビッシュは北京五輪の代表にも選ばれていたため、その苦労を鑑みれば「ダルビッシュに分がある」という意見も見られ、多くの議論を呼んだのだ。
私個人の意見で言えば、ダルビッシュの剛球を活かした「先発完投型」という点は、先に述べた、1937年春季シーズンの沢村栄治の成績とダブるものを感じる。事実、完投数と奪三振数でダルビッシュが上回り、基準をクリアしている以上、ダルビッシュの方がふさわしいのではないかと思わなくもない。
それを考慮すれば、「被本塁打数の少なさ」はともかく「発展途上の楽天での貢献度」なんていう理由は非常に曖昧だ。
この年の日本ハムは、楽天より上位の3位でシーズンを終えているが、クライマックスシリーズではファイナルステージまで勝ち進んでいる。ファイナルステージで敗退となったものの、シリーズ中のダルビッシュは2勝を上げており、上位進出の原動力となっているだけに、岩隈と同じくチームへの貢献度は非常に高い。選考基準をすべてクリアしておきながら、「発展途上の楽天での貢献度」なんていう理由で逃してしまうのは、なんとも不憫である。
そしてこれが、沢村賞の選考基準をすべてクリアしていながら、選考基準を満たしていない投手に軍配が上がった初めての例でもある。個人的には非常に惜しい選考漏れとなってしまった。
ちなみに、3年後の2011年にもダルビッシュは選考基準の全7項目をクリアしているが、同じく全7項目をクリアした田中将大(楽天)に軍配が上がっている。