徴兵された若者が入隊のため向け出発。のぼり旗を先頭に町を行進して、駅前で万歳三唱。よくドラマのシーンで見かけますね。この夏、三島市の生涯学習センターで開催された平和のための戦争展に、のぼり旗の実物が展示されていました。
写真は修正していますが、「祝入営 大村○○君」「祝除隊 大村○○君」とちゃんと氏名が記されています。入営とは軍隊に入ること。祝除隊というのぼり旗があったのを、この実物を見て初めて知りました。
近くで見るとこの旗に使われている生地はたいへん高価なもののようです。透かし模様まで織り込まれた、薄い絹の生地でした。説明してくれた方によると、大村さんは日中戦争の頃に入隊し、太平洋戦争が始まる前に除隊されたそうです。兵役期間を終えて除隊した兵は自動的に予備役となるため、太平洋戦争中は再び軍隊に召集されることが極めて多かったということです。(戦傷者でなければ約9割が再び軍隊に召集されたと言われています)
おそらく大村さんも再び軍隊に取られることになったことでしょう。無事に生きて故郷に帰還して、「祝除隊」とお祝いまでしてもらったのに、再び銃砲弾が飛び交う戦地に赴かねばならなかったとは!
はなむけとして送られた日の丸の寄せ書きも展示されていました。記されているのはたくさんの男たちの名前。寄せ書きした人たちの多くもまた、大村さんと同じように寄せ書きの日の丸を持って戦地に向かうことになったことでしょう。
これは防空頭巾です。いまの小学生たちが使っている防災頭巾の元になったもので、基本的には同じものです。防空頭巾の場合は、焼夷弾の火炎から頭部を守るために水で濡らしてかぶったそうです。
防空頭巾には住所・氏名・生年月日が記された名札が縫い込まれてます。名前を見ると大村さんのご家族のようです。たぶん娘さんなのでしょう。そして、氏名の横に記された生年月日を見ると――。
「昭和19年12月3日生」
防空頭巾の主は乳飲み子だったのです。日本本土の空襲が熾烈になるのは昭和20年のことです。東京大空襲の頃、彼女はまだ首もすわらない3カ月。静岡大空襲の頃はカ月。三島の隣の沼津市が焼け野原になった沼津大空襲の頃でも7カ月です。
0歳の娘を残して再び戦地に赴かねばならなかった大村さんはどんな気持ちだったでしょうか。もし仮に内地勤務だったとしたら、空襲の情報は海外の戦場にいるよりずっと正確に、そしてリアルに伝わっていたはず。日本中の町が炎に包まれていく中で、幼い娘のことをどれほど案じていたことか。
それを思うと苦いものがこみ上げてきて止まらなくなります。