超個人的印象で申し訳ないのだが、沖縄が返還されて43年となった5月15日、鮮明に思い出されるのは2年前の石巻で繰り広げられたエイサーだ。
東日本大震災で大きな被害を受けた石巻にボランティアとしてやってきて、定住する決心をすることになった沖縄出身のヒロムさん(ヒロムー)。たくさんの仲間ができたこと、救援活動に来たのに逆にお世話になったこと、立ち上がろうとする石巻の町を沖縄出身の自分にできる形で応援したいと思ったこと、そんないろいろな思いがひとつに溶け合って、こんな言葉になった。
「出会えばきょうだい」
沖縄の今帰仁村(なきじんそん)湧川(わくがわ)のエイサー隊がやってきたのは、石巻最大の夏祭り「川開き」でのこと。石巻の人たちも数カ月前から受け入れの支度をしたり、エイサーに参加するための練習をしてきた。
石巻でエイサーを演じることになる祭り前日、ヒロムーはFacebookにこう綴った。
「石巻と、沖縄県の今帰仁村がちょーでー(きょうだい)になります」
「ちょーでー」たちが統治下時代に経験したこと
沖縄返還から43年目となる今日、沖縄に関するたくさんのニュースが発信されている。基地移転問題、基地周辺環境の問題、経済、オスプレイ、尖閣…。多くの問題を理解する上でひとつの原点はアメリカ統治下の沖縄だ。太平洋戦争末期に占領されそのまま軍政が実質的に続けられた沖縄では、強制的に基地建設が進められた。戦闘で全土が破壊された上、日本と切り離されたため沖縄の経済は困窮した。米軍基地を中心とした経済が成り立っていった。そのために沖縄の中で人々の対立が生じた。当時の沖縄のことを「パスポート」を切り口に見てみたい。
アメリカ統治時代、沖縄の人々が日本本土に渡航するためには、パスポートが必要だったのをご存知だろうか。資料を見ると、あずき色の表紙には「日本渡航証明書 琉球列島米国民政府」とある。本文は、「本証明書添付の写真及び説明事項に該当する琉球住民は、日本へ旅行するものであることを証明する。琉球列島高等弁務官」と記されている。
日本に行くためにパスポートが必要だったということは、当時の沖縄はアメリカで、沖縄返還というのはアメリカ領になっていた沖縄が日本に返されたと思われがちだが、それはどうも違うようだ。
沖縄の人たちが日本に旅行するに当たって持っていたのは、アメリカ合衆国が発行したパスポートではない。あくまで「琉球列島高等弁務官」が発行した証明書だ。本文にもたとえば「本証明書添付の写真及び説明事項に該当するアメリカ合衆国民は」とは書かれていない。
当時の沖縄に存在したもう一種類のパスポートの文面を見れば、さらに明確だ。
日本本土に渡航するためのものはあずき色の表紙だが、それとは別に深緑色の表紙のものがあった。これは日本以外の国に渡航するためのパスポートで、「右の琉球住民に対し通路故障なく旅行させ且つ必要な保護扶助を与えられるよう、その筋の諸官に要請する。」と記されている
本文後半の内容は一般的なパスポートだが、あずき色の表紙のものと同様、パスポート所持者のことを「琉球住民」と規定している。
発行者が国務長官でも外務大臣でもなく、琉球列島高等弁務官と記されているのも同様。この琉球列島高等弁務官がどのような職の人かというと、アメリカの大統領の承認により国防長官が任命した琉球列島米国民政府の最高責任者。アメリカ陸軍将軍が任命される職の名称だった。
そして、驚きくほかないのがパスポートの表紙に刻まれた言葉である。
「身分証明書 旅券に代り発行」。
旅券とは、その国の国民であることを証する身分証明書のことだ。表紙に刻印された言葉の意味は「国民であることを称する身分証明書である旅券の代りに発行する身分証明書」というわけの分からないものになる。
噛み砕くと、国民であることを認めるものではない。ただし、パスポート所持者が琉球住民であるというIDは保証するということだ。
つまり、アメリカ統治時代に沖縄の人たちが持っていたパスポートは「米国民ではない」と明示されていたことになる。では日本国民だったのかというと、先に説明しとおり渡航するのにパスポートが必要なのだから、国民として認められていない。
それどころか、出入国に際しての審査や検疫も厳しく行われていた。統治時代には、沖縄の高校が甲子園に出場しても、甲子園の土を沖縄に持ち帰ることができなかったという。なぜなら検疫があったから。沖縄が日本に返還された1972年の甲子園に春夏連続出場した名護高校は、春のセンバツではダメで、返還後に開催された夏の甲子園では土を持ち帰ることができというエピソードまである。
「沖縄は、日本のためにアメリカに里子に出されていた」という表現を目にすることがしばしばある。里子という言葉には、帰ってきて一番喜ぶのは親である日本の本土の人たちに違いないという意味が込められている。里子が帰ってきたのに……という思いが。
沖縄返還から43年。復帰後に経過した時間はアメリカ統治期間である27年をはるかに超える。しかしいまだに「本土並み」という返還時のスローガンすら達成されていない。軍事的負担は押し付けたまま。構造的とも言える経済的困窮を解消する方策も機能しない。
日本人ではなく、さりとてアメリカ人でもない27年間に多くを奪われた沖縄。実家に帰りたいと願って43年前に復帰した「ちょーでー」たち。
沖縄がとりわけ「大きなわ」を美しく体現してくれることを望まない兄弟などいないはずだ。沖縄のさまざまな問題を考えるとき、心のどこか大切なところに「ちょーでー」という言葉を置いておかなければならない。
遠く離れた沖縄と石巻でも、私たちは「出会えばきょうだい」。ヒロムーの言葉のとおりなのだから。