最近入社された先輩(?)と四方山話していたら、話が源頼朝のことになって、さらにジャンプして吾妻鏡のことになった。そういえば、書きかけでお蔵にしていたページがあったのを思い出したのでアップする次第。
吾妻鑑に記されているのは、まるで時代劇のようなスペクタクルだ。たとえば、頼朝の子である二代将軍頼家は、妻の実家である比企家と仲よくするあまり、母の実家である北条家をちょっと疎遠にしていた。
そんなことなど、都から遠流された「貴種」源頼朝を担ぎ上げて、関東に源氏政権を実質的に打ち立てた北条氏としていい気がするわけない。北条家こそが政権樹立の立役者であると自認していたに違いない。だから、邪魔者は消せ、ということか。比企家の主である比企能員(よしかず)は殺害されてしまう。
「比企能員の変」と呼ばれる出来事を、吾妻鏡がどのように描いたか――。これがもう壮絶なドラマなのである。
比企能員に逆心はあったのか?
将軍頼家は、父の跡を継ぎ将軍職に就任したものの、若くして病の床にあった。その病が進んだので、家督を弟(後の実朝・北条政子の子、数えで10歳)と実子である一幡(比企能員の孫にあたる、数え6歳)に分与する方針を立てたと吾妻鏡は伝える。しかし、ここからしてかなりマユツバものだ。
吾妻鏡によると話は急転直下に進む。この分与に比企能員が反対。病床の頼家と密談して、北条氏を討つ許可を得る。その話を障子の陰で密かに聞いていた北条政子が父・北条時政に使いを出す。政子からの文を読んだ時政は、頼朝亡き後の政治を担当していた大江広元に「比企氏は専横が過ぎるからやっつけていい?」と相談に行くが、広元「軍事のことは自分には判断できません。よく考えて行動してください」と応える。それを聞いた時政は子分を引き連れて「比企を討つ」と宣言。
その一方で、病床にある将軍頼家の快癒を願って作った仏像の開眼供養をするから、是非来てくれよと比企能員を誘い出す。きっと謀略だから武装した家来を連れて行くようにと比企能員の一族・家来らは求めるが、「そんなことをしたら鎌倉中が大騒ぎになる。いまは将軍御快癒のため仏に祈ることだ」と能員は家来2人と荷物持ち等のみを連れて出かけていく。
これを待ち受ける北条時政は鎧兜に身を固め、弓の名手の中野四郎と市河別当五郎行重を門の脇で構えさせ、天野遠景と新田忠常は軽装の鎧を身に着けて、戸の陰に潜んで能員の到着を待つ。
当時の普通の感覚がどんなものだったのかは分からないが、頼家と討つべしと談合していた能員が、討つべき北条時政の誘いに乗って、相手の邸宅へのこのこ出掛けていくなんて、現代の感覚からすれば考えられない。それに対して、鎧兜に身を固めて待ち受けていたのは北条時政なのである。吾妻鏡は後に北条家によってまとめられた史書だ。北条氏の側からの「都合のいい歴史」である。どうやら、世に「比企能員の変」と呼ばれる出来事は、能員が引き起こした変ではないと考えた方が合理的にすら思えてくる。
そして、壮絶なのはその後の記述なのである。
誅戮に踵を廻さず
(いちおう原文の読み下しを記しますが、読まなくてもいいです)
小時廷尉参入す。平礼の白き水干・葛袴を着し黒馬に駕す。郎等二人・雑色五人共に有り。惣門に入り廊の沓脱を昇り、妻戸を通り、北面に参らんと擬す。時に蓮景・忠常等造合脇戸の砌に立ち向かい、廷尉の左右の手を取り、山本竹中に引き伏せ、誅戮に踵を廻さず。
当時の平服の白い水干に葛袴姿で、二人の従者と五人の召使いを連れて比企能員は邸に入ってきた。能員が靴を脱いで屋敷に入って、南側の外廊下(あるいは廊下の曲がり角あたり)に差し掛かろうとしたところを、天野遠景と新田忠常らは、能員の左右の手を取り竹藪の中に引きずり込むや、
「誅戮踵を不廻」(ちゅうりくきびすをかえさず)
――なんの躊躇もなく殺してしまった。
思い描いてほしい。白い上着に葛袴(こちらも生成の白っぽいものだろう)でやってきた能員が、ひとりで靴を脱いで廊下に上がって、北面の外廊下(つまり、仏事を行う部屋の下手の廊下)に差し掛かろうとしたところを、力丈夫の二人の武士に両手両脇を抱えられて外庭に引き下ろす。屋敷の山本(山近くに鎌倉の北条の屋敷はあったのか)の竹やぶの中に引きずり込んで、有無も言わさずに殺害したというのである。
「何事ぞ!」と叫ぶ能員の声が聞こえる。「離せ離せ!」「将軍家ご快癒のために参ったのだ」と叫ぶ能員の声が聞こえてくるようだ。
しかし、力自慢の二人の武士に竹やぶの中に組み伏せられ、「問答無用」とすらも答えることなく、比企能員は殺害されてしまうのである。
この急変に、能員が連れていた僮僕が比企家の屋敷に急を知らせに走る。残された比企家の家中は戦支度にかかるが、一幡(この人は頼朝の孫、北条政子の孫、北条時政のひ孫である!)も含めて北条側にあっさりと全滅せられてしまうのだ。
歴史ってなんなのさ。
繰り返しになるが吾妻鏡は鎌倉幕府による記録。それは源氏の記録ではなく、北条氏による記録。北条氏に都合の悪い事実は基本的に排除されていると考えていいだろう。さりながら、このくだりでは、比企能員の無惨な死によって、その対極にある北条氏の残忍さが浮き立っている。
北条氏はどうしてこのような記載を吾妻鏡に残したのか。当時、北条氏を上回るほどの存在になりつつあった比企能員と比企家をかくも見事に葬ったという、華々しい戦果ということだったのだろうか(北条氏にとって)?
公的な歴史は、時の権力者によって作られる。しかし、その制約された中にですら権力者にとっての「不都合」を見出すことは可能なのではないか――。そのことを思う。
この歴史上の出来事を「比企能員の変」と呼ぶことの、そもそもの誤りに心至った次第なのです。N先輩、ありがとう。また四方山話しましょう。ちなみにね、僕が今住んでるところって、北条の伊豆の屋敷があった跡地なんですよ、鎌倉の北条氏とはたぶんほとんど繋がりはないけれど。