昨年11月30日、水木しげるさんが逝去された後、書店には水木しげるコーナーが設けられ、戦争中の体験を描いた「総員玉砕せよ!」など、多くの作品が平積みで並べられた。そんな折り、氏を追悼する意味で本書の書評を書こうと思い立ったのだが、書評なんて堅苦しい文章を書くことができず、今日まで棚ざらしにしてしまっていた。
水木しげる氏が亡くなって7カ月あまり、この作品に描かれた戦争の実態について、去来するものを手紙として、息子氏へ届けようと思う。書評としてではなく、数パーセントであれ時代の空気に触れて育ったものとして。
従軍慰安婦と玉砕攻撃
「総員玉砕せよ!」の冒頭は、従軍慰安婦の元へ行くように、上官から半ば強制されるシーンから始まる。しかし慰安所はすでに長蛇の列で、しかも閉店の5時までにはあますところ5分しかない。「もう5時ですからおしまいですよ」と言う慰安婦の言葉に対して、列をなす兵隊達が「あと70人くらいだ、我慢してけれ」と声をかける。
ひところ、従軍慰安婦について喧しく議論された折り、慰安婦が強制されたものなのか、ビジネスだったかのかと左右両陣営から引用されたくだりである。
触るだけ、なめるだけという兵隊達のおどけた声に対して、慰安婦たちがうたい出す。
私はくるわに散る花よ
昼はしおれーて夜にさく
いやなお客もきらはれず
鬼の主人のきげんとり
私はなんでこのような
つらいつとめを
せにゃならぬ
これもぜひない親のため
引用元:「総員玉砕せよ!」水木しげる:講談社文庫
順番待ちを諦めた兵隊達もこの歌を、慰安婦達と一緒に合唱するのである。
同じ経験を記した作品「水木しげるのラバウル戦記」にはさらに踏み込んだ記述がある。
上陸した頃は、ココボはまだ陸軍の基地で、たしか103兵站病院もあり従軍慰安婦もいた。彼女たちは「ピー」と呼ばれていて、椰子林の中の小さな小屋に一人ずつ住んでおり、日曜日とか祭日にはお相手をするわけだが、沖縄の人は「縄ピー」、朝鮮の人は「朝鮮ピー」と呼ばれていたようだ。
彼女たちは徴用されて無理矢理つれてこられて、兵隊と同じような劣悪な待遇なので、みるからにかわいそうな気がした。
引用元:「水木しげるのラバウル戦記」ちくま文庫
ここで申し述べたいのは、物語の最終盤、突撃に当たって指揮官が述べる言葉だ。彼は突撃とは言わぬ。
これから 全員 玉砕する
最後に お前たちの 好きな歌を うたって 死のう
引用元:「総員玉砕せよ!」水木しげる:講談社文庫
玉砕とは死ぬことだ。突撃して敵と戦うのではなく、目的はあくまでも死ぬこと。全滅せよとの命令だ。そんな命令に際して「好きな歌をうたって死のう」と呼びかけられた兵隊たちがうたった歌、それが、かつて娼婦たちと唱和したあの歌だった。
私は〜な〜んでこのよう〜な
つら〜いつとめ〜を
せにゃ〜ならぬ
引用元:「総員玉砕せよ!」水木しげる:講談社文庫
従軍慰安婦があったとかなかったとか、彼女たちがビジネスとしての娼婦だったか、強制連行された人たちだったのかとか、そんなつまらぬ議論への明確な答え、戦場を経験した水木しげるさんの答えがここにある。
ひとつ付け加えたい。慰安婦のうたった歌には「なんで」の答えとして「これもぜひない親のため」としたためられているが、最後の玉砕突撃を前にした兵隊たちはその続きをうたっていない。
うたわずとも理解できる共通認識が、物語が描かれた時代にはまだあった。それは——。
「これもぜひない、お国のため」だったのだ。
物語を貫く軸として、慰安婦と玉砕攻撃が描かれている以上、玉砕攻撃が現実であれば慰安婦だけが虚構であったなどありえない。自軍の死を命じる軍隊というものの実像を描いた「総員玉砕せよ!」は、10%の創作はあるにせよ、90%が事実であると著者はあとがきに記している。
実は生き延びた参謀。死を命じた師団長
この書評もどきで伝えたいのは、慰安婦問題よりも水木しげるさんがあとがきに書いたことだ。その前に、「総員玉砕せよ!」で描かれた冒頭と最後の「くるわに散る花」の歌の間に何が描かれているのか、ネタバレになるがざっくり紹介する。
物語の前半は、楽園のように美しい南の島の風景と、戦闘前の兵隊達の日々の生活の対比が描かれる。ワニに喰われて死ぬ者がいる。手榴弾を爆発させて魚を生け捕りにするシーンでは、日頃の飢えのあまり捕れた魚を丸呑みしようとして窒息死する兵隊が描かれる。マラリアの高熱で錯乱する兵隊、繰り返し繰り返し描かれる、先輩兵士によるビンタや、食料に対する猛烈な欲求。戦地に赴いて、敵との戦闘ではなく、日常の中で命が失われていく様と、楽園のような光景のコントラストはあまりにも鮮烈だ。
そして戦闘が始まる。圧倒的な連合軍の戦闘力の前に無力でしかない日本軍。敵の攻撃にさらされて肉体が粉砕されていく描写。そこには、水木しげるの妖怪まんがのデッサンに通底するものすら見える。ゲゲゲの鬼太郎のねずみ男を思わせるキャラクターもちらりと登場したりする。
上陸してきた連合軍との戦闘で日本軍は大敗するが、中心人物らは玉砕攻撃から生き残る。そこまで読み進んだ時点で、「よかった」と胸をなで下ろす自分がいた。しかし、ページはまだ100ページほども残されていた。
ここまででも十分にお腹いっぱいなのだが、「総員玉砕せよ!」のクライマックスはこの先に展開されるのだった。
以下、少々長くなるが、あとがきを全文引用する。
あとがき
あの場所をそうまでにして…
この「総員玉砕せよ!」という物語は、九十パーセントは事実です。
ただ、参謀が流弾にあたって死ぬことになっていますが、あれは事実ではなく、参謀はテキトウな時に上手に逃げます。
物語では全員死にますが、実際は八十人近く生き残ります。
だいたい同じ島で「オレたちあとで死ぬから、お前たち先に死ね」といわれても、なかなか死ねるものではありません。
「玉砕」というのは、どこでもそうですが、必ず生き残りがいます。
まあ、ペリリウ島等は、ものすごく生き残りが少なかったので、模範ということになり、ラバウルではペリリウ島につづけということがよくいわれました。
しかしペリリウ島みたいな島で全員が一度に死ぬというなら、玉砕は成功する。
ラバウルの場合、後方に十万の兵隊が、ぬくぬくと生活しているのに、その前線で五百人の兵隊(実際は三、四百人)に死ねといわれても、とても兵隊全体の同意は得られるものではない。
軍隊で兵隊と靴下は消耗品といわれ、兵隊は“猫”位にしか考えられていないのです。こと“死”に関しては、やはり人間である。“一寸の虫にも五分の魂”という言葉があるが、兵隊全体の暗黙の同意なしにただ命令というだけでは、玉砕は成立しないと僕は思う。
新任の二十七歳の大隊長は、個人としては立派かもしれないが、五百人近くの人間の意思を統率するにはあまりにも若すぎた。
それを指揮していたというより指令していたのが“参謀”で、むしろラバウル十万の兵隊に「その場で死ね」というのは師団長の方針だったから、その見本にするつもりがあったのかもしれない。
将校、下士官、馬、兵隊といわれる順位の軍隊で兵隊というものは“人間”ではなく馬以下の生物と思われていたから、ぼくは、玉砕で生き残るというのは卑怯ではなく“人間”として最後の抵抗ではなかったかと思う。
この物語では最後に全員死ぬことになっているが、ぼくは最後に一人の兵隊が逃げて次の地点で守る連隊長に報告することにしようと思った。だが、長くなるので全員玉砕にしたが、事実はとなりの地区を守っていた混成三連隊の連隊長は、この玉砕事件についてこういった。
「あの場所をなぜ、そうまでにして守らなねばならなかったのか」
ぼくはそれを耳にしたとき「フハッ」と空しいため息みたいな言葉が出るだけだった。
あの場所をそうまでにして……、なんと空しい言葉だろう、死人(戦死者)に口はない。ぼくは戦記物をかくとわけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う。
1991年8月
水木しげる
引用元:「総員玉砕せよ!」水木しげる:講談社文庫
水木しげるさんが二等兵(最下級の兵隊)として所属していた部隊は、突撃を敢行し玉砕したものとして、方面軍司令部はもとより東京の大本営にも報告される。その敢闘精神はラバウル全軍の士気を高めるものと賞賛された。しかし、実際には水木さんを含め多くの生存者が存在した。
玉砕したことになっている部隊が生き残っているということは、「ラバウル全軍の面汚し」と指弾され、師団参謀が生き残った兵達の処断と再突撃の指揮を執るため前線に派遣されることになった。
せっかく生き残った命を、再び無謀でしかない玉砕攻撃によって散らせねばならない。そんなことがなぜ行われたのか。
そこには昭和16年、太平洋戦争が開戦する年の1月、総理大臣と陸軍大臣を兼務した東条英機陸相が示達した「戦陣訓」の教えがあった。
恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々(いよいよ)奮励(ふんれい)してその期待に答ふべし、生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ
引用元:『戦陣訓』「本訓 其の二」、「第八 名を惜しむ」
戦場で生き延びて捕虜としての辱めを受けることなく、郷里の人々の期待に応えるべく死を決して戦え、という意味だ。この戦陣訓が、太平洋戦争で玉砕攻撃が繰り返されることになったバックボーンにあるという指摘は多い。
水木さんが所属した第229連隊が玉砕攻撃を行った日時も驚きだ。作品中、中隊長が自決する場面の兵隊とのやり取りを引用する。
中隊長どの
きくところによると内地も空襲され
戦局の大勢は決したかのようにきいております
状況は変わっているかもしれません
ありがとう
だが命令だ
俺にかまわず行ってくれ
中隊長どの!
お前達が万一、生きて内地にかえったら
俺の命日は三月十八日だと家族に伝えてくれ
引用元:「総員玉砕せよ!」水木しげる:講談社文庫
1945年(昭和20年)3月。その前年の夏にはグアム、サイパンなどマリアナ諸島の島々が陥落し、その責任をとって東条内閣は総辞職。1944年末から日本本土はB-29爆撃機による猛攻にさらされていた。東京の下町を灰燼に帰した東京大空襲は1945年3月10日、サイパンからの本土爆撃の中継基地として戦われた硫黄島の戦闘が終わるのが3月28日、そして沖縄本島に米軍が上陸するのが4月1日。ニューギニアの東方に位置するラバウルは、すでに戦局に影響することのない「遺棄された戦場」だった。
そんなラバウルで、10万の兵力があるうちの数百人が玉砕攻撃することにどんな意味があったというのか。その作戦が敢行されたことには慄然とするほかない。
参謀は玉砕攻撃を命じて、自らは生き延びた。
師団長は、ラバウル防衛隊の面目を保つために、生き残った兵隊の処断を命じた。
いったい、何だというのか。憤りがわき上がる。
人間の二面性
第229連隊の生き残りの処断を命じたのは、第38師団長だった影佐禎昭中将だとされる。しかし彼の上官には、地域の軍の統率のみならず、占領地の民政をも司る第八方面群司令官の今村均大将がいた。
今村大将は名将の誉れの高い将軍で、前任地のインドネシアでの軍政では占領地の人々からの人望も高く、連合国側からも賞賛された人物だ。ラバウル防衛隊を統率するようになってからもその評判は高く、戦後マッカーサー元帥から「武士道を体現する将軍」とまで賞賛されている。
しかし、玉砕攻撃を生き延びた兵隊を処断するという方針に異を唱えることはなかった。今村大将は戦陣訓の作成にも直接参加している。(戦陣訓の文章をまとめたのは作家の島崎藤村)
「総員玉砕せよ!」に描かれている参謀は松浦義教中佐で、彼は戦後ラバウルでの戦犯裁判で弁護人をつとめ、多くの再審を勝ち取った人でもある。のちにラバウルの戦闘や裁判に関する本も著し、1957年には松浦氏の「最後の突撃」が日活で映画化されてもいる。
軍を統括した司令官も、その元で第229連隊の処断を担当した参謀も、当時の「良識」を体現する人物だった。
むしろそのことにこそ、玉砕攻撃やその生き残りの兵隊に対する再度の玉砕攻撃を「当たり前」のことのように遂行せしめた闇があるのではないか。
受け入れがたいことではあるが、当時、玉砕は、紛れもなく正義だったのだ。
「総員玉砕せよ!」はきわめてインパクトの大きな作品ではあるが、日本人が直面していた戦争という巨大な装置を読み解いていくための入り口としてとらえるべき作品なのかもしれない。