歴史の中の7月11日
▼1854年 ペリー艦隊が琉球に来航し琉米修好条約を締結
1853年、ペリーは浦賀に来航する前に琉球の那覇に立ち寄っていた。その後、小笠原経由で浦賀に向かい、大統領の親書を幕府に渡したのち、ペリーは那覇を再訪。施設利用や燃料端の貯蔵などの要求を突き付けた上で立ち去った。
翌年、再び江戸湾に向かう途中でも那覇に来航。江戸で日米和親条約を結んだ帰りには那覇で琉米修好条約を締結した。
その内容は、自由貿易、米艦艇への薪水供与、漂流民保護、領事裁判権といったものだった。
ペリーは、1852年11月24日(嘉永5年10月13日)にアメリカを出発し、喜望峰、シンガポール、香港等を経て翌年5月26日(嘉永6年4月19日)那覇に到着した。当時の琉球(現在の沖縄)は、薩摩藩島津氏の統治下に置かれていたが、他方中国(清朝)との朝貢関係も維持するという「両属」の体制にあった。その琉球政府高官にペリーは修好の希望を伝え、琉球を根拠地として日本周辺の調査を行い、その後浦賀に向かった。日米和親条約調印後、ペリーは琉球に戻り、1854年7月11日(嘉永7年6月17日)琉米条約を琉球国中山府「総理大臣尚宏勲」および「布政大夫馬良才」との間に調印した。本条約の主要点は、水、食料、燃料(薪)の補給、遭難船の救助、外国人墓地の保護等であった。
琉米修好条約の91年後、1945年春に沖縄は日米戦争の激戦の戦場となり、多くの人々が命を落とした。その年の初秋、東京湾上の米戦艦で行われた降伏文書調印式には、ペリーが来航した際に旗艦ポーハタン号のマストに翻っていた米国旗(州を示す星が31の当時の星条旗)が掲げられた。那覇港と江戸湾で数次にわたって掲げられたその旗が。
▼1893年 御木本幸吉が真珠養殖に成功
ただしこの時に養殖アコヤガイから発見された真珠は、貝殻の内側に着いた半球状のもので真円真珠の養殖成功は1905年とされる。
▼1931年 航空研究所(JAXAの前身のひとつ)開設
航空機の基礎研究を行う東京帝国大学の研究所として創設された。1938年に長距離飛行の世界記録を作った航研機の開発、航空機用ディーゼルエンジンの研究、高速飛行を可能にする翼型の研究など、学術的な研究が行われた。
世界記録を樹立した航研機のレプリカが青森県立三沢航空科学館に展示されている。搭載されたエンジンは機体製作を行った日野自動車(当時は東京瓦斯電気工業)の日野オートサロンに展示されている。
▼1950年 小倉黒人米兵集団脱走事件
朝鮮戦争のさなか、前線に投入されるために小倉市(現在の北九州市)の城野補給基地にあった200~300人の米兵が銃で武装して基地を脱走。近隣の住宅や繁華街で略奪やレイプを繰り返す事件が発生した。負け戦の朝鮮戦争で最前線に投入されること悲観しての集団脱走・暴行という見方もあるが、この事件に取材した松本清張は、小説「黒地の絵」の中で、それでも許せないと復讐を続ける被害男性を描いた。占領下で起きたこの事件はほとんど報道されることもなかった。事件の舞台となった北九州市でも、今では知る人は多くない。「黒地の絵」、初版の帯には次のように記されている。
朝鮮動乱の最中、基地小倉から戦線に送りこまれる数百の黒人兵部隊が“ 死ぬのはイヤだ! ”と叛乱を起こし市街に躍り出て、二十五万小倉市民を恐怖のどん底に陥れた。当時すべての情報はさしとめられ、事件の陰に生まれた多くの悲劇は、闇から闇へと葬り去られた。
「黒地の絵」は、「点と線」「眼の壁」の著者が、この秘められた怖るべき地獄の真実と取り組んだノンフィクション・スリラー。
引用元:「黒地の絵」(光人社)の帯より
▼1966年 原爆ドームの保存を市議会が決議
1歳で被爆し15年後に白血病で亡くなった楮山(かじやま)ヒロ子さんの日記をきっかけに原爆ドーム(産業奨励館)の保存運動は広がっていった。当時は保存か撤去かで意見は二分されていたが、映画「千羽鶴」からつくられたこども達の団体「広島折鶴の会」も保存を訴える活動を展開。この日、広島市が保存を決議した。
楮山(かじやま)ヒロ子さんの日記
保存(ほぞん)運動(うんどう)のきっかけとなったのは楮山(かじやま)ヒロ子さんの日記でした。
ヒロ子さん(当時1歳(さい))は、平塚町(ひらつかちょう)の自宅(じたく)で被爆(ひばく)。15年後の1960年4月5日に白血病で亡(な)くなりました。残された日記の1959年8月6日のページには、「八時十五分、平和の鐘が鳴り外国代表のメッセージを読み終わり、十四年前のこの日この時に広島市民の胸に今もまざまざと、記憶されている恐るべき原爆が十四年たった今でも、いや一生涯焼き残るだろう。(中略)あの痛々(いたいた)しい産業(さんぎょう)奨励館(しょうれいかん)(原爆(げんばく)ドーム)だけが、いつまでも、恐(おそ)るべき原爆(げんばく)を世に訴(うった)えてくれるのだろうか」(要旨(ようし))と記されています。
提供:楮山(かじやま)国人(くにと)・キミ子
▼1968年 少年ジャンプ創刊
集英社により創刊された漫画雑誌。創刊当時は週刊ではなく月2回発行だった。発行前から「少年ブック」に創刊を告知する広告が掲載されていた。雑誌としてのスローガンは「友情」「努力」「勝利」。1972年からは中沢啓治「はだしのゲン」も掲載。
▼1979年 日本坂トンネル火災事故
東名高速道路下り線、日本坂トンネル(静岡県静岡市・焼津市)内で発生した玉突き事故で火災が発生、7人が死亡するトンネル火災事故となった。スプリンクラーなどの消火設備はあったものの、渋滞した車列に燃え移る火勢は強く、消火までに約3日間を要した。
この日が誕生日
◆1628年 徳川光圀(水戸光圀)
水戸藩2代藩主。徳川家康の十男頼房の三男。神武天皇の世から後小松帝(一休宗純の父との説のある南北朝期北朝の天皇)の時代の歴史を扱う「大日本史」の編纂に着手した(完成は明治時代)。庶民にも名君として知られていたためか、幕末期には講談「水戸黄門漫遊記」の主人公として扱われることになる。
◆1920年 ユル・ブリンナー
ロシア・ウラジオストック出身の俳優。エキゾチックな顔立ちと独特の雰囲気から舞台や映画で活躍した。「王様と私」でアカデミー主演男優賞。「十戒」「荒野の七人」など出演作多数。
◆1931年 大塚康生
日本のアニメーター。東映動画で「白蛇伝」の動画担当、「太陽の王子 ホルスの大冒険」の作画監督を担当。高畑勲や宮崎駿の師匠筋に当たる。「ルパン三世」「ムーミン」「パンダコパンダ」「未来少年コナン」「じゃりン子チエ」など手掛けた作品は数知れず。
この日亡くなった人たち
・645年 蘇我蝦夷
推古帝から皇極帝の時代にかけて権勢をふるった飛鳥時代の貴族。馬子の子。大化の改新の端緒となった乙巳の変で息子入鹿が殺された翌日自害。
・1831年 ヴァーシリー・ゴローニン
帝政ロシアの海軍軍人で探検家。千島列島の測量を行っている際、国後島で幕府役人に捕えられ箱館(現在の函館)で幽閉される。後にロシア側が捕えていた廻船商人・高田屋嘉兵衛ら日本人と交換で解放され帰国。「日本幽囚記」を著した。
・1863年 田中新兵衛
薩摩藩の陪臣。幕末の四大人斬りの一人。尊王攘夷を唱える公家で国事参政の姉小路公知(あねがこうじきんとも)暗殺の下手人として捕えられ、取り調べ中に自刃。
・1868年 ジェームズ・ブルック
イギリスの探検家、サラワク王国初代国王。ボルネオ島を探検し原住民の反乱を鎮圧したことから、現地のスルタンにラージャ(藩王)に任じられた。またビクトリア女王からはサーの称号を授けられている。英国を後ろ盾にボルネオ島サラワク地方を支配し、彼の死後も2代にわたりサラワク王国として現地を支配した。(太平洋戦争で日本軍に占領され消滅)
・1937年 ジョージ・ガーシュイン
ニューヨークのブルックリン生まれの作曲家。クラシック音楽とポピュラー音楽の両方で活躍した。38歳で脳腫瘍のため急逝した。
・1971年 ジョン・ウッド・キャンベル
アメリカのSF雑誌編集者でSF作家。「遊星からの物体X」「アーコット、モーリー&ウェード」シリーズなど著書多数。