田んぼの中の2億年。命をつなぐ生きた化石

田植えが終わった田んぼの中に、不思議な生き物の陰。わさわさ、わさわさ。遠目から見るとおたまじゃくしのようだが、近づいて見ると何とも珍妙なその姿。

一見カブトガニにも似ているがかなり縁遠い。こう見えても三葉虫の末裔だ

「ボクたちはカブトエビ。もっとも、そんな名前をつけたのは、ボクらよりも生き物としてははるかに後輩のホモサピエンスたち。だから当然、ボクらは自分たちのことをカブトエビなんて名前で呼んだりはしていない。名前なんて意識することもなく、雨期になると卵から孵って、1カ月ほどの間、水たまりや沼地で暮らして卵を残して死んで行く。また次の年の雨期になると卵から子孫たちが孵って、やはり1カ月ほど暮らして死んで行く。ボクらはもう2億年ほど、そうやって生きてきた。2億年前というと、ちょうど初期の恐竜たちがわんさか姿を現していた頃。ボクらはその頃からほとんど姿を変えずに生きてきた」

どことなくアノマロカリスとかオパビニアを連想させる風格がある

会社帰りにペットショップで買ってきた水槽用の網で、田んぼのカブトエビを掬っていたら、散歩のおばさんたちがこんなことを話しながら通り過ぎて行った。

「孫がね、こないだもカブトエビを捕って来たのよ。何に入れて持って帰ったと思う? 水筒なの。三葉虫の子孫だかなんだか知らないけど、もう困っちゃったわ」

2億年を生きてきたカブトエビは、どこの田んぼにもいるという訳ではない。初めて実物に出会ったのは伊豆に引っ越してきてからだった。

どうやら日本に住んでいるカブトエビは、外国から帰化生物として入ってきたらしい。しかも農薬に敏感なので、薬を使う田んぼには住めない。カブトエビがいるということは、農薬を使っていない田んぼということらしい。

たしかに、カブトエビを見つけた田んぼのすぐ近くの田んぼでも、おたまじゃくししかいない田んぼ、ガムシくらいしかいない田んぼなど、田んぼごとに住んでいる生き物が違っていた。農家の米づくりの方針が生物相にも影響するという訳だ。

しかし、カブトエビが住んでいる田んぼには、毎年この時期になるとカブトエビが出現する。そうして伊豆・韮山の小学生たちは学校帰りに田んぼでカブトエビと戯れ、追い回した挙げ句に水筒に入れて持ち帰り、水筒を洗おうとしたお母さんやおばあちゃんは毎年のようにびっくり仰天することになる。

クローバーの芽をむしゃむしゃ

「田んぼに水を張ったすぐ後に現れて、1カ月くらいでいなくなる。ボクらのことをオバケみたいに言う人もいるけれど、最近じゃ除草に役立つ田んぼの守り主なんて言われることもあるんだよ。卵から孵って1カ月ほどの間に大人になって子孫を残さなければならないから、ボクらは食欲旺盛だ。田んぼの中のプランクトンはもちろん、雑草の生え始めの芽なんかも大好物。田んぼの中を泳ぎ回っては、イネの周りに生えてきた草を食べ尽くす。ボクたちのおかげでイネは栄養分を独占してどんどん成長する。田植えから1カ月後、ボクらが土に還る頃には、もうイネは雑草に負けないくらい大きくなっているから、除草剤なんか必要ない。変な薬を撒かずにいてもらえるから、ボクらの子孫も同じ田んぼで生きながらえて行くことができる。なかなか理に適っているダ」

短期間に成長・成熟しなければならないから食欲旺盛

水槽に入れたクローバーの芽をバリバリ食べる。雑食だと聞いていたので、マグロの中落ちを投げ入れてみると、目の色を変えて飛びついた。本当に食欲旺盛だ。ただ不思議だったのは、取り合って食べるのではなくて、1匹が餌に取り付いている間は、ほかの個体は少し離れたところで順番を待っているように見えたことだ。

たまたまの偶然なのかもしれないが、もしかしたら、大きくなってもせいぜい4センチほどの小さな生き物だけど、食べ物を巡ってのルールのようなものを持っているのかもしれない。あるいはそれが2億年を生き延びてきた知恵のひとつなのかも。なんて思わせるくらい神秘的な存在ではある。

カブトエビが生きてきた2億年に比べれば、水田の歴史はたったの2000年。時の流れの果てに、新たな共生関係が生まれているという不思議

カブトエビが登場した2億年前には、もちろん田んぼなどありはしなかった。雨期の期間、1カ月だけ水場に現れ、1年の残り11カ月は小さな卵の姿で乾燥した季節を乗り越える。そんな生き様が、水田という環境にぴったりマッチして、1億9999万8000年の後に、こうして日本の田んぼで暮らしている。不思議な姿のカブトエビには、地球史の神秘と稲作の恵みの物語が秘められていた、という一節。

不思議だよなあ。すごいことだよなあ。