復興への砦「みんなの家」から見た陸前高田

iRyota25

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かさ上げ工事が進められる陸前高田。中心地近くの小さな高台に「みんなの家」がたっている。津波の塩害を受けた地元の材木を使ってつくられた、まるで林のような、あるいはまるで砦のようなその姿が印象的だ。

みんなの家は、建築家の伊東豊雄さんを筆頭に、乾久美子さん、藤本壮介さん、平田晃久さんの若手建築家3人に加え、陸前高田出身の写真家畠山直哉さんらが中心となって造ったコミュニティのための建築物。ゆとりある住空間が得難い被災地で、仮設住宅などで暮らす地元の人たちの憩いの場所としてプレゼントされた家、まさにその名の通り「みんなの家」。

みんなの家は、第13回ヴェネチア・ビエンナーレ建築展国別参加部門の最優秀賞である金獅子賞を受賞した。 栄えある受賞を果たしたみんなの家には、全国、そして世界中から建築系の学生や研究者たちが頻繁に訪れる。

みんなの家に息づいているもうひとつの物語、それは震災後の時間経過の中で地元の人たちが求めてやまなかった思いに応えて育まれてきたものだ。震災で町の中心部のほとんどが破壊された陸前高田では、多くの人が避難所生活を余儀なくされた。避難所はプライバシーのない空間。ただ寝泊まりするだけの空間。しかしそこでも人々はコミュニティを築いていった。避難所のけっして恵まれているとは言えない暮らしの中で育まれていった人と人のつながりを、みんなの家を管理している陸前高田の菅原さんはかつてこんなエピソードで語ってくれたことがある。

「仮設住宅の建築が進んで、窮屈だった避難所暮らしからやっと仮設に移れることになった時、行きたくないという人がたくさんいたんです」

避難所生活を続ける中でようやくいろいろな人とつながっていけた。しかし仮設住宅に入居したらそのつながりがバラバラになってしまう。また一から始めなければならない。

菅原さんは避難所生活で育っていったコミュニティを、仮設住宅の外で実現したいと考えた。別々の仮設住宅に入居した人たちが集まって、お茶をしたりおしゃべりしたりできる場所を作りたい。そんな地元の切実な想いと建築家たちの出会いからみんなの家は誕生した。

みんなの家は2012年11月に完成。写真は2013年4月の頃
みんなの家は2012年11月に完成。写真は2013年4月の頃

たくさんの杉の柱に支えられるようにして、室内は垂直方向にのびている。そして建物の周りには螺旋を描くように階段や物見台が設えられている。

このところ運悪く定休日に行き当たってしまって、菅原さんとお会いできるチャンスを逃してばかりなのだが、「建物の外階段はご自由に上ってください」ということなので、最上階まで上る。

高台とはいえ、この周辺も津波被害を受けた場所だ。それでも、被災地に伸び上がるように立つみんなの家の屋上からは、陸前高田の町並みが一望できる。

一望とは言え、泣きたくなるような光景なのだが。(現在との比較の為、2013年に撮った写真と2015年1月の写真を掲載)

2013年4月撮影
2013年4月撮影
2015年1月撮影
2015年1月撮影
2013年4月撮影
2013年4月撮影
2015年1月撮影(はるか彼方に見える構造物に注目を)
2015年1月撮影(はるか彼方に見える構造物に注目を)

道の付け替えが進み、盛土はどんどん高くなっていく。2015年の撮影時は雪景色で高度感が分かりにくいが、遠景の盛土はおそらく15メートル近い高さだと思う。(米沢商会さんのビルと同じくらいの高さに見える)

そして、さらにその向こう。パイプのような構造物が並ぶのが、地元の人たちが「コンビナート」と通称する巨大ベルトコンベアー。気仙川の対岸の今泉地区から切り出した土を運んで、高田地区の盛土として使うという、信じられないほど大規模な土地造成が進められている。

2015年1月撮影(木の肌の色が土地になじんできたように感じる)
2015年1月撮影(木の肌の色が土地になじんできたように感じる)

みんなの家から眺める陸前高田の町は、造成工事が進むばかりでまだ人の暮らしの気配を感じさせるものはない。それでも工事は急ピッチで進められている。あと2年、あと2年半、土地造成が完了する時期について地元では、「まだ分からないけどね」と前置きしがらも期待する声も多い。

その一方で、坂道の上から造成工事が進む町を眺めていた友人が、「何もかんも変わってしまった」と小さな声でつぶやいたあの一瞬を忘れることはできない。

たくさんの人たちが「仮り」の状況の中で生活している。新しい町が造られていくに従って、「仮り」の生活の中で育んできた「人との関わり」が失われる危機が再び繰り返されるかもしれない。避難所から仮設住宅に転出した時と同様に。その恐れは大きい。

町の変化を見詰め続けてきたみんなの家。砦として、人と人をつなぐ場所として、その使命はまだ長く続いていくことだろう。

たとえ住んでいる建物が仮設であったとしても、そこでの暮らしや人とのつながり、流れている時間は仮りのものではない。人は衣食住だけで生きるものではない。人と人のつながりの「結び目」になる場所がもつ意味は、被災地の外の人が想像するよりもはるかに大きいのではないだろうか。

みんなの家

*追記*
みんなの家から見える「コンビナート」の周辺を歩きました。

 ◇ 陸前高田のベルトコンベアは「希望のかけ橋」
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 ◇ 陸前高田・見晴台からのパノラマ写真
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 ◇ まるで工場夜景。陸前高田「夜のコンビナート」
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