[関東大震災の記憶]潜水艦がドックから放り出された

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潜水艦まで観光資源。平成の今も軍都の様相を見せる横須賀港(2013年11月撮影)
潜水艦まで観光資源。平成の今も軍都の様相を見せる横須賀港(2013年11月撮影)

今回も時事新報社が震災3カ月後に上梓した「大正大震災記」の記事から、当時の様子をお伝えします。三浦半島に位置する鎌倉、横須賀は、震源地に近いこともあって、地震の揺れによる大きな被害を蒙りました。また相模湾に面した鎌倉は津波にも襲われたほか、被害状況から火災も酷かったことがわかります。

大正大震災記では、それぞれの地域別に異なる記者さんが執筆しているようです。鎌倉と横須賀を担当した記者さんは、一部時代を感じさせる言い回しの部分もあるので、若干言葉づかいを修正しているところもあります。原典は、文末に国立国会図書館のリンクを掲げますので直接ご確認ください。

9月10日には海軍の援助で食糧不足は解消されたが…

鎌倉地方罹災民のため鎌倉御用邸は開放され、町役場では各所に配給所を設け、1人2合ずつの玄米および野菜等を給与した。9月10日からは海軍の手で関西方面から補給され、食料欠乏の声は跡を絶った。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行

食料欠乏の声が「跡を絶った」とあるのは、震災から10日後のこと。この間に人々がなめた辛酸を想像すると心が苦しくなります。おそらく横浜と同様、鎌倉も飢餓地獄の様相を呈していたのではないでしょうか。あまりにもあっさりした描写なので、実際のところについて、他の資料を当たってみなければという気持ちになります。

負傷者臨時救護所は、鎌倉駅貴賓室、長谷の諸戸清六氏別荘ほか2カ所に急設し診療につとめたが、倒壊した主なる建物は、鎌倉御用邸および国宝の八幡社前の石鳥居3基、円覚寺仏牙舎利殿をはじめ八幡宮楼門、神楽殿、円覚寺、建長寺、長谷観音寺、鎌倉小学校、同女学校、同中学校、郵便局、山階宮別邸、伏見宮別邸、松方公、島津公別荘、鎌倉駅、同警察署、師範学校は半壊にて各寺院は全部倒壊した。

震災に次ぎ海嘯(つなみ)におそわれた坂の下長谷方面では、流失家屋77戸、由比ヶ浜海水浴場では水泳中のもの約100名と、江の島桟橋通行人約50名が流失行方不明となった。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行

円覚寺舎利殿(国宝)
円覚寺舎利殿(国宝)

ja.wikipedia.org

「各寺院は全部倒壊した」というのは乱暴な感じがしますが、津波に襲われて海水浴客と江の島への橋の上にいた人が流されたという記載には痛々しいものがあります。
続いて、山階宮佐紀子殿下ほかの著名人の死去、総理大臣経験者で元老の松方正義の怪我、山階宮武彦殿下が御用邸のテントに避難されたことなども記されていますが、目線の向いている方向が少しずれているように感じるのは、現代の感覚でしょうか。

鎌倉近郊でとくに被害が激しかったのは、鎌倉と腰越で、その被害状況は次のように記されています。

【鎌倉】
全3,310戸のうち、倒壊3,954戸、焼失735戸、死者375名、負傷者1,737名(戸数の数字が合わない。総戸数から逆算すると鎌倉の全戸数は4,302戸となる)

【腰越】
全871戸のうち、倒壊518戸、焼失278戸、死者58名、負傷者116名

【鎌倉警察署管内全体】
全7,443戸のうち、倒壊5,675戸、焼失1,016戸、死者519名、負傷者2,015名

鎌倉地域の全戸数の4分の3以上が倒壊したことになる。また約14%が焼失していることから、記事中には記されていないが火災による被害も大きかったことがわかります。

潜水艦がドックから投げ出された:横須賀

横須賀は地震そのものによる激烈な揺れと、重油タンクから漏れた油に引火して港中が火の海になったという記述が、他の資料でも見られます。南西の風が強かったこと、漏洩した重油が8万トンに上ったことも、多数の資料に出てきます。

横須賀は地震後、稲岡、山王の2カ所から発火したが、南西の風凄まじく、ことに筥崎重油槽は震害と同時に重油8万トンに火が移って爆発したため、港内一面に火の海を起こし、艦船は一時ことごとく港外に避難したほどだった。

市民は地震と火事に怯えつつ、街路に群がっていたが、またも津波襲来の声に狼狽して、高台さしてどんどん逃れた。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行

かつての軍都・横須賀は海軍の艦船の根拠地(鎮守府と呼ばれた)のひとつ。甚大な被害を蒙った横須賀からは他の3つの鎮守府(呉、舞鶴、佐世保)に向けて電信で救援を要請したとのことです。

野間口鎮守府長官は直ちに佐世保に向かって救護肩を無線電信にて通じ、罹災民救済のために市内の米穀類を強制挑発せしめ、3日朝から20カ所で炊き出しを行い、パン、缶詰類も供与した。

一方軍港は、工廠ドック内にあった潜水艦は船台から投げ出され、軍艦三笠は艦底からの浸水甚だしく、港外に曳航して安全な頑丈に沈礁させた。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行

軍艦三笠は、日露戦争でロシア海軍のバルチック艦隊を撃破した連合艦隊の旗艦だった艦。地震で激しく岸壁に撃ちつけられ、かつての損傷個所から浸水したため、港外の機関学校近くに着底させたそうです。その後、記念艦として横須賀港で埋め立て保存されています。

前方から望む戦艦三笠(横須賀市の三笠公園内)
前方から望む戦艦三笠(横須賀市の三笠公園内)

commons.wikimedia.org

ドックの船台から投げ出されて壊れた潜水艦は、第10潜水艦と第14潜水艦というごく初期の潜水艦だったようです。その他、横須賀の大型ドックで建造中だった高速戦艦「天城」は船の背骨にあたる重要な構造物である竜骨が破壊され大破、建造不能となり解体されました。天城は赤城と同型艦でともに航空母艦に改造される予定でしたが、天城が大破したため、代わりにより低速の戦艦加賀が空母に改造されることになったと言われています。軍都・横須賀だけに、軍関係の被害状況は数多く伝えられています。

関東大震災直後の横須賀海軍工廠ガントリークレーン付近。天城が左舷(手前側)に傾き損傷している
関東大震災直後の横須賀海軍工廠ガントリークレーン付近。天城が左舷(手前側)に傾き損傷している

commons.wikimedia.org

横須賀市での倒壊家屋は1万4300戸を数え、焼失家屋4700戸と合わせて「ほとんど全滅と同じく」と大正大震災記は記しています。死傷者は1,600名に及んだということです。また被害金額は軍港関係だけで6、7000万円に達する見込みと報じられました。算出方法はいろいろで、金額の幅が大きくなりますが、現在の価値で3500億円から3兆円の被害と計算することができます。しかし、建造中の軍艦が壊れるほどですから、実際にはもっと大変な被害だったかもしれません。

鎮守府司令官が米を徴用して占め炊き出しを行ったなど、美談のように思える記事もありますが、鎌倉のことと同様、横須賀についても、関東大震災でどんなことがあったのか、さらに調べていきたいと思います。

 国立国会図書館デジタルコレクション - 大正大震災記
dl.ndl.go.jp  

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