[10月30日という日]初恋の日

Rinoue125R

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1896年のこの日、島崎藤村が「初恋」の詩を発表

「まだあげ初めし前髪の」から始まる島崎藤村の「初恋」。1896年(明治29)の10月30日、雑誌「文学界」に発表されました。これを受けて、藤村の宿として知られる信州小諸の中棚荘によって初恋の日に定められました。中棚荘には「初恋りんご風呂」という温泉もあるそうです。

初恋

まだあげ初(そ)めし前髪(まへがみ)の
林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれなゐ)の秋の実(み)に
人こひ初(そ)めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃(さかづき)を
君が情(なさけ)に酌(く)みしかな

林檎畑の樹(こ)の下に
おのづからなる細道(ほそみち)は
誰(た)が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ

島崎藤村 若菜集 | 青空文庫

同じ年には、大津波により2万1959人の犠牲者を出した明治三陸地震(6月15日)、信濃川の堤防決壊(7月22日)といった出来事もありました。

歴史の中の10月30日

ヘンリー7世以来代々のイギリス君主が用いたテューダー・ローズ紋

ヘンリー7世以来代々のイギリス君主が用いたテューダー・ローズ紋

▼1485年 イングランド王ヘンリー7世が即位

ボズワースの戦いでリチャード3世(ヨーク家)を敗死させたランカスター家のヘンリー・テューダーがロンドンで戴冠式を挙行、ヘンリー7世として即位した。

王位継承権の正当性が疑問視されていたヘンリー7世の即位後も、リチャード3世の支持者や、正統な王位継承権を主張する者による混乱が続き、ヘンリー7世は王位継承権者を次々に粛清した。また、最大の王位継承者だったリチャード3世の姪にあたるエリザベス・オブ・ヨークと結婚、ランカスター家の赤いバラとヨーク家の白いバラを組み合わせたテューダー・ローズを制定した。

ヘンリー7世の力による治安回復によって、ばら戦争の混乱から政治は安定に向かったという。

▼1890年 教育勅語発布

教育ニ関スル勅語。明治天皇が教育に関して示した勅語。国会開設の勅諭、帝国憲法の起草にあたった熊本出身の官僚・井上毅(こわし)が起草した。

※以下の画像と現代語訳は明治神宮のページから引用

【教育勅語の口語文訳】
 私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。 

  国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

  このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

~国民道徳協会訳文による~

明治神宮-明治神宮とは-

▼1918年 トルコが連合国に降伏(第一次世界大戦)

第一次世界大戦では、連合国の海上封鎖により同盟国側は経済的に疲弊していった。また、トルコの支配下にあったアラブ地域では、イギリスの画策によってアラブ反乱が発生。「アラビアのロレンス」の名で知られるトーマス・エドワード・ロレンスが中東を駆け回った。戦争の長期化に耐えきれなくなったトルコは、10月30日にムドロス休戦協定を締結して休戦した。

その後オーストリア、ハンガリー、イタリアと、連合国と休戦を結ぶ国が続出。
11月11日にはドイツの降伏をもって第一次世界大戦は終結する。

▼1938年 「宇宙戦争」のラジオドラマで大パニック

H・G・ウェルズの小説「宇宙戦争」で軍艦を攻撃するトライポッド

H・G・ウェルズの小説「宇宙戦争」で軍艦を攻撃するトライポッド

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来襲した火星人が、宇宙船から発す熱線や、破壊機械トライポッドを使って地球を侵略していくH・G・ウェルズの小説「宇宙戦争」。1938年のこの日、もう一人の偉大なウェルズ、オーソン・ウェルズによってアメリカのCBSネットワーク「マーキュリー劇場」でラジオドラマ化された。

この日の生放送は思わぬ大反響を呼んだ。ラジオを聞いた人々は火星人の襲来を現実のものと勘違いしたり、ドイツ軍による攻撃が始まったと思い込んだ人たちの間で大パニックが発生したのだ。このラジオドラマは、進行している事件をアナウンサーが生中継するというスタイルだったため、真に受けた人が多かったらしい。

このラジオ番組はハロウィンの特別番組だった。

▼1961年 世界最大の核爆弾「ツァーリ・ボンバ」の大気圏内核実験

ソ連が造った世界最大の核爆弾「ツァーリ・ボンバ」の大気圏内核実験が行われた。ツァーリ・ボンバとはロシア語で「爆弾の皇帝」を意味する。
この水爆の威力は50メガトン、つまり通常爆弾に使われるTNT火薬5000万トン分。広島型原爆の3300倍以上に相当する。核実験は北極海のノヴァヤ・ゼムリャで行われたが、重量27トンの巨大爆弾は最大級の戦略爆撃機であるツポレフ95でも搭載できず、燃料タンクの一部が取り外された。さらに爆弾倉の扉も撤去され、爆撃機の腹から半分はみ出した状態で運ばれた「爆弾の皇帝」は、高さ60キロにも達するキノコ雲と、地球を3周する衝撃波ととに、地球にダメージを与えた。これでも爆弾の威力は実験の安全のために半減されていたという。

巨大なツァーリ・ボンバはツポレフ95戦略爆撃機から投下された。爆発時に発生した火球は爆弾投下高度まで達したという。実際の投下機は熱線を防ぐ特殊塗料が施されていたという
巨大なツァーリ・ボンバはツポレフ95戦略爆撃機から投下された。爆発時に発生した火球は爆弾投下高度まで達したという。実際の投下機は熱線を防ぐ特殊塗料が施されていたという

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ツァーリ・ボンバの原寸大模型
ツァーリ・ボンバの原寸大模型

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ツァーリ・ボンバの実験が行われた1961年はベルリンの壁が築かれた年(8月)。翌年1962年には、米ソ対立によって核戦争のカウントダウンにまで至ったキューバ危機(10月)が発生している。

▼1973年 アジアとヨーロッパを結ぶボスポラス橋が完成

トルコのイスタンブールでボスポラス海峡に架けられた吊り橋。トルコの建国50周年記念日の翌日に完成した。

▼1982年 西武ライオンズが中日ドラゴンズを倒して初の日本一

西鉄ライオンズ時代に記録した1956年からの3連覇と合わせて4回目の日本一。九州の球団から所沢を拠点とする西武ライオンズとなって4年目のリーグ制覇(前期優勝・プレイオフで日本ハムに勝利)、日本一だった。

▼2005年 ドレスデン爆撃で焼失した聖母教会が成聖される

聖母教会、2005年

聖母教会、2005年

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ドレスデン爆撃は第二次大戦の終盤、1945年2月13日から15日にかけて、英米空軍によって行われた無差別爆撃。

13日深夜の英空軍による夜間爆撃に始まり、15日まで昼夜を問わず重爆撃機による爆撃が繰り返され、合計3900トンの爆弾が投下された。

ドレスデンの街では火災旋風が発生し、市街地の80%が破壊された。爆撃の犠牲になった一般市民の数は、数万人から50万人と大きな開きがある。人々の生死すら判然としないほどの大きな破壊が行われたことが分かる。

戦争の帰趨がすでに決した時期に行われたドレスデン爆撃に対しては、当時から反対、非難の声が上がっていた。

聖母教会はドレスデンの街の中心部にあった。爆撃による破壊は免れたが、火災旋風によって周囲は1000℃を超える火の海になったと言われている。猛火の中を地下聖堂に逃れてきた人々が、危険が迫っていた教会から外に脱出するまでの間、聖母教会は持ちこたえ、その後15日になって倒潰したと伝えられている。

聖母教会の廃墟(1991年)、手前の標識は「崩落の恐れがあるため立ち入り禁止」

聖母教会の廃墟(1991年)、手前の標識は「崩落の恐れがあるため立ち入り禁止」

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倒潰した聖母教会は、東ドイツとなったドレスデンの街に45年にわたって放置されてきた。再建計画はあっても、経済的な困難から実現しなかった。東西冷戦の末期には聖母教会の廃墟は市民運動の場ともなっていたという。

教会は、かつての敵同士の和解を象徴する建物として再建され、2005年のこの日から宗教改革の記念日である31日まで式典が行われた。

この日が誕生日

◆1741年 アンゲリカ・カウフマン
スイス出身のオーストリア人画家。画家であった父に教えられ、自らも絵筆を執るようになり、若くして才能あふれる女性画家として高く評価された。

「ミランダとフェルディナンドの情景」(1782年)
「ミランダとフェルディナンドの情景」(1782年)

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彼女が描く男性像が、まるで男装した女性のように見えるのは、当時、女性画家が男性のモデルを使えなかったからだという指摘もある。それはそれとして、どこか演劇的な魅力を感じさせてくれるいい絵です。

◆1839年 シスレー
アルフレッド・シスレー。フランス生まれのイギリス人画家。印象派の代表的画家のひとり。裕福な貿易商の家に育つが、後に父親が破産し、絵を売ること、絵が売れないことに生涯苦しめられたという。しかしその作品は明るく穏やかで美しい。

「洪水と小舟」1876年 オルセー美術館
「洪水と小舟」1876年 オルセー美術館

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◆1861年 ブールデル
エミール=アントワーヌ・ブールデル。フランスの彫刻家。「弓を引くヘラクレス」や「瀕死のケンタウロス」日本でも多くの作品を見ることができる。

◆1868年 大森房吉
福井出身の地震学者。ジョン・ミルンが礎を築いた日本の地震学を発展させた人物。帝国大学地震学教授。濃尾地震を研究し、震災予防調査会の幹事となる。日本の地震学の第一人者と目されてきた。関東大震災については、「関東地方では周期的に大地震が発生する」と雑誌で警告した今村明恒(助教授)とは激しく対立した。1923年、関東大震災は大森のオーストラリア出張中に発生する。大森は急遽帰国の途に就くが、帰国の約1カ月後、脳腫瘍で死去した。

有珠山や桜島などの火山活動についても研究した。機械式の大森式地震計の開発など、日本の地震学の発展に貢献した。

◆1871年 ポール・ヴァレリー
フランスの詩人、小説家、批評家。「テスト氏」「若きパルク」

◆1874年 上田敏
東京生まれの詩人、翻訳家。象徴派の詩を初めて紹介した「海潮音」に収められた「秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて」(ポール・ヴェルレーヌ)、「山のあなたの空遠く 「幸」住むと人のいふ」(カール・ブッセ)などは、いまも多くの人々に愛されている。

◆1937年 東海林さだお
東京生まれの漫画家、エッセイスト。「ショージ君」「タンマ君」「サラリーマン専科」「アサッテ君」など。

◆1937年 クロード・ルルーシュ
フランスの映画監督。「男と女」、グルノーブル冬季オリンピックの記録映画「白い恋人たち」、「愛と哀しみのボレロ」など多数。

◆1979年 仲間由紀恵
沖縄出身の女優

◆1980年 鬼束ちひろ
宮崎県出身のシンガーソングライター

◆1980年 福田衣里子(えりこ)
長崎県出身の元衆議院議員。薬害肝炎九州訴訟原告団代表。

この日亡くなった人たち

・1823年 エドモンド・カートライト
イギリスの牧師で発明家、実業家。自動織機の開発で有名。産業革命の歴史に欠かせない人物。

・1903年 尾崎紅葉
東京出身の小説家、俳人。山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊した。代表作は「金色夜叉」

・1910年 アンリ・デュナン
スイスの実業家で国際赤十字を創始した人物

・1928年 ロバート・ランシング
第一次世界大戦期のアメリカ合衆国国務長官。独断専行でウィリアム大統領と対立した。中国での特殊権益に関する日米の協定「石井・ランシング協定」を結んだ。

・1930年 豊田佐吉
静岡県西部、旧三河吉田藩領の農家出身の発明家、豊田自動織機創業者。

・1933年 平福百穂(ひらふくひゃくすい)
秋田県出身の日本画家。「朝露」「荒磯」など

荒磯(ありそ)1926年 東京(東京国立近代美術館)
荒磯(ありそ)1926年 東京(東京国立近代美術館)

・1981年 能見正比古
奉天市生まれの文筆家。「血液型人間学」を提唱し、血液型による性格分類を広めた。

・2006年 木下順二
東京出身の劇作家。民話劇、歴史劇、社会派の演劇、シェークスピアの翻訳など幅広い分野で活躍した。代表作は「夕鶴」

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