[関東大震災の記憶]横浜の惨状

iRyota25

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「大正大震災記」(時事新報社 1923年12月2日発行)に掲載された震災後の横浜。西洋風の建築物が立ち並ぶハイカラな町に想像を絶する地割れが走る。印刷物からの転写で写りは悪いながら、崩壊した街の痛々しさが伝わってくる
「大正大震災記」(時事新報社 1923年12月2日発行)に掲載された震災後の横浜。西洋風の建築物が立ち並ぶハイカラな町に想像を絶する地割れが走る。印刷物からの転写で写りは悪いながら、崩壊した街の痛々しさが伝わってくる

関東大震災では東京の町なかで発生した大火災と火災旋風による被害のイメージがあまりにも強烈だが、震源に近い横浜では、東京都は異なる被害状況だった。

時事新報社が震災の3カ月後に発行した「大正大震災記」の記事から、言葉遣いや表記を現代語に改め、一部に句読点等を補ったほかは、ほぼ原文そのままを引用する。91年前の大震災を身近に「追体験」していただければ幸いだ。

大地が裂けて水を二尺も噴き出した

その日は初秋らしい晴々しい空だった。午前九時ごろ驟雨があったが約十分の後上がった後は、白雲点々と流れていたが、すき透るような蒼空で、誰だってあの恐ろしい大地震があろうとは予感しなかったであろう。「この分では二百十日は無事ですね」と語り合ったのは、あの地震より三十分ほど前だった。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行

印刷が困難な中、8ページもに及ぶ横浜市の被害状況は、こんな書き出しから始まる。発達した低気圧は海上に抜け、わずかににわか雨があったが、午前中には美しい秋空が広がる。昔から台風や大風の多い日とされてきた二百十日も無事に過ごせそうだと話し合う人々を襲ったのは、暴風よりもさらに激烈な大地震。相模トラフのプレート型地震と考えられる関東大地震だが、震源に近い横浜では、直下型地震特有の激震だった。

ああ大正十二年九月一日午前十一時五十八分(焼け残った市中の時計は十一時五十九分で停止している)、突如地鳴りとともにめりめりという激動で強震を感じた。起震と同時に家具家財は投げ出されて、壁は落ちた。

その物凄い音と響きは交錯して、ゴゴウゴゴウと唸った。「地震だッ」と意識するいとまもなく、家は倒れる、地面は亀裂する。上下に震動、左右に動揺した。

家の中にいる人も道を行く人も、一時に尻もちをついたが起き上がれない。耳を聾するばかりの音響――。

四ツ這いになっていて横に打倒される。腰を下ろしていて前にのめらせられる。テーブルも椅子も跳ね上がる。

電柱は首を傾け根こぎに倒れた。三階五階の大屋根が見る間に一散に崩落した。黄塵は天を覆うた。

「助けて! 助けて!」と叫ぶ声が、破れた屋根、崩れた煉瓦の間から聞こえる。震動はあるいは弱く、あるいは激しく、海洋のうねりのように平衡を欠いていた。「ドドドド」とやや一定の感覚をおいて、自動車の爆音のように聞こえた。その数分間こそ、開港五十年の横浜全市を破壊しつくしてしまったのだ。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行

凄まじい描写だ。目を覆ういとまもなく、眼前で繰り広げられる信じられない光景。その言葉に、私は東日本大震災を経験した人たちと同じものを見てしまう。

地鳴りとともにやってくる強震。立っていることも、しゃがんでいることも出来ない激しい振動。建物の中から聞こえてくる救助を求める声。自動車の爆音のような音。それは東日本大震災のみならず、阪神淡路大震災でもたくさんの人々の身を襲った「望まざる体験」だったに違いない。

見る限りの潰れた家の屋根から血みどろの人が這いだしてくる。衣類を取り乱した女、シャツ一枚の男などが、屋根から道路に転げてくる。潰れなかった家の出口はひしめき合って表へ押し出され、軒下に重なり合って倒れた。屋根の瓦は飛ぶ。その瞬間は音も響きも差別されない。もう恐ろしいとも悲しいとも意識されず、ただ本能的に逃げたに過ぎない。続いて起こる余震に倒れては起き、起きては倒れながら逃げ惑う市民には、目的も前後もない。

第一震の激動時間は約二分間位であった。そうして波が引いたように静まった。

それからわずか十分くらいの間であった。第二震の激動までに市中に残った建物は横浜市役所、正金銀行(注:旧・横浜正金銀行、のちの東京銀行)、記念会館、県庁、十五銀行ビル、三井銀行、住友銀行、朝田回漕店、横浜駅、桜木町駅、社会館くらいに過ぎない。

伊勢佐木町警察署は第一震で半潰れで、大岡川へ半ば傾斜していたが、第二震とともに川へ落ち込んでしまった。消防出張所も壊れた。野沢屋呉服店五層新館が傾斜した。花園橋際、名取ホテルの五層楼も影がなかった。関外と中村町方面の山が北に南にハンモックの揺れるように揺すぶっていた。

地面は一尺から三尺まで沈下し(約30センチから1メートル弱ほど)、港町河岸は地割れの程度が甚だしかったのだが、わずか八間(14.5メートル)の道路に二筋あるいは三筋、幅二尺ないし四尺(60センチ~120センチ)に亀裂し、割れ目の間は二尺ほど陥落した。

市役所に近い所は、第一震で亀裂が生じ、第二真に割れ口を広めて陥落したのだったが、その割れ口から高さ一尺ほど水を噴き出した。

第二真の時には、それでも人々は逃げ惑っていた。圧死者の数は全市を通じて約一万八千と称せられている。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行

激震と亀裂のみならず、液状化の発生を想起させるような描写だ。震災に見舞われた神戸でも、市役所の海側では各所で液状化による泥水が吹き出し、近代化産業遺産に指定された神戸市立美術館のような重厚な建築物であって被害が生じていた。神戸港やポートアイランドのような埋立地では、液状化による地盤の側方流動も多発した。

第一震で傾き、第二震で川に倒れ落ちた伊勢佐木警察署の話など、阪神淡路大震災の被災地の様子を思い起こさせるものだ。

耐震化が進んでいる現代の都市では大きな被害は起きないだろうという楽観は、考え直した方がいいのでないか。

全市焦土

横浜の惨劇は地震による建物倒壊でピリオドが打たれたわけではなかった。人々をただ無心に逃げ惑わせるような激震に続いて、歴史的な港町を火の手が襲った。

第一震の止んだ頃、山手町の山上から黒い煙は東へ流れた。その煙こそ横浜最初の失火と言われるテンプルコートで、火炎は強風に煽られて、低く地上をなめていた。そのうちに福富町、真砂町、末吉町、野毛通り、住吉町六丁目本社支局の付近から、モックリと黒い煙が上がった。

風は北東を強く吹いてはいなかったが、折りから昼食時で、炊事の火は潰れた屋根や天井の下から随所に物凄い音と煙を上げて火災を起こした。

見る見る猛火災は渦の如く、次々の町をなめて約一時間の後には関内、関外、本牧、野毛、戸部方面は火の手が五筋に分かれて全市を荒れ廻り、午後五時までに八分通りを灰燼とした。

火の流れは市の北方から南へ南へと進展し、高島町の鉄路を隔てた神奈川方面へ及び、地震と火事とで仰天した市民は、一物を持ち出さず、血と泥とにまみれて逃げ惑うた。

安河内知事以下の官公吏は御真影を奉持して横浜公園に避難した。関内、関外の人々は同公園に、あるいは大岡川、中村川、掘割川、日の出川、桜川の船に、東横浜駅構内に、横浜正金銀行内に、桟橋に、末吉橋付近空き地に、係留中のコレヤ丸その他の巨船内に逃れたが、火は河中の舟にも燃え移り、生きながら舟とともに運命を共にした惨死者五千を数えた。

その中には、河中に十三時間浸かって九死を脱したものもあったが、末吉橋付近の泥水中に浸かった二百余名は、火勢の為そのまま蒸し殺されたものもあった。

横浜公園の避難者は約五万と注された。公園の樹木は一葉の緑も止めず黄色と化したが、公演中の土壌陥落して噴水したため、却って無事を得た。

悲惨な実話中には、潰れた家から家族を助け出したが、子供は顔を引き出したのみで猛火に包まれ、見棄てもされず、呆然焔の中に泣き声の止まるのを待って逃げ延びたもの、親を背負ったまま焼死したもの、子供を抱いて黒焦げの母の死体が累々として焼け跡から出た。

「大正大震災記」時事新報社 1923年12月2日発行

横浜の惨劇はまだ続く。避難先で命を落とした人々、放火、暴動、700人を超える外国人被災者、混乱に乗じて暴利を貪る商人…。

大正大震災記に描かれる出来事は、もうこれから先、起きることはないなどと断言することはできない。身に迫る実話である。

(つづく)

 近代デジタルライブラリー - 大正大震災記
kindai.ndl.go.jp  

文●井上良太

最終更新:

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