[空気の研究]戦争の終らせ方

Rinoue125R

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太平洋戦争開戦当時の連合艦隊司令長官・山本五十六大将は、近衛文麿首相から戦争の成算について尋ねられて「初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れますが、2年3年となれば全く確信は持てません」と答えたと言われる。

その話を本で読み知ったとき、そんな無責任な見通しで戦争を始めてしまったのかと驚いたのを憶えている。太平洋戦争の海軍の戦いに関しては、名将と讃えられる山本大将の言うとおりになったわけだが、そんな有言実行はありがたくない。

「1年程度は暴れ回るが後は分からない」という言葉は、戦争を始めたところで、始めた戦争をどうやって仕舞うのかという目算すら立たないと白状しているようなものだ。もっとも開戦の是非の判断は山本大将のレベルではなく、政府上層部など指導する立場にあった人たちなのだろうが、クロージングまで綿密な戦略を立てることなく戦争が始められてしまったのは間違いないだろう。

ヨーロッパではドイツが優勢だから、始めれば何とかなるだろうという無責任な楽観に立っていたのかもしれない。国民はそんな指導者のいい加減な戦争計画に巻き込まれ、その結果数百万人もの犠牲を出すことになってしまった。

太平洋戦争最末期になっても、戦争のクロージングをどうするかという戦略は曖昧なままで、最後の決戦で相手に大打撃を与えた上で講和するという考え方が語られていた。

講和を頼み込む相手としてソ連を想定し、実際に交渉を進めていたというのだから開いた口が塞がらなかった。

第一次大戦前のシュリーフェン計画

地政学的にヨーロッパの中心にあるがゆえに、西と東から仏露両大国に挟まれる位置にあったドイツ。人類が最初に経験することになる世界大戦に先立って、「次の戦争をどう戦うか」との計画が立てられていた。その有名なもののひとつがシュリーフェン計画だ。

当時の戦争は、最前線にどれだけの兵力を、敵に先んじて集中動員し、敵の体制が整う前に制圧することが勝利の方程式だった。その実現のためにシュリーフェン計画では自国の鉄道網と、他国の追随を許さない綿密な鉄道ダイヤによって、西と東の大敵を時間差攻撃で叩くことを戦争のドクトリンとした。

緻密かつ綿密な鉄道網を駆使した動員で、まずは6週間で西のフランスを攻めパリを落とす。次いで返す刀で、戦力動員が鈍いと考えられていたロシアに兵を進める。そんな計画だ。シュリーフェンプランでは、フランスを屈服させた後にロシアを倒すという形で、あたかも戦争の仕舞い方まで含めた方針が明確化されているように見える。

しかし、そんなことが果たして100%可能なのか。もしもフランス攻め6週間という計画が少し遅滞して7週間以上かかったとき、東のロシアに対する守りは耐えうるものだったのか。「もしも計画がうまく進まなかった時」という想定が、シュリーフェンプランからは欠落している。

一見、綿密かつ緻密な計画に見えるが、相手のある戦争では不測の事態への対応を盛り込まねいほどにタイトな計画は、成功よりも破綻の可能性の方がはるかに高い。

結局シュリーフェンプランは計画通りには機能せず、ドイツは東西両戦線での戦いを強いられることになる。そして塹壕線で膠着した戦線を戦い続けた挙げ句についに連合国側に屈することになった。「電撃」的にフランスを屈服させて、返す刀でロシアを討つという計画は画餅に終わり、その計画は20数年後の第二次世界大戦で亡霊のような形で蘇った挙げ句に、さらに大きな破滅に繋がっていくことになった。

「戦後」を見通せなかったノルマンディ上陸作戦

戦争の先行きを読み切れなかった、あるいは終戦の形をデザインすることができないままに戦争に向き合っていたのは、両大戦の敗戦国だけではない。

第二次世界大戦で枢軸国を打ち破り、戦後の新しい世界秩序を創出したとされる連合軍だが、対独戦争の中期、アフリカでの「局地戦」で勝利を得た後、「ドイツを屈服させる為に次にどこを攻めるか」という戦略策定の過程で連合国側の米英二巨頭の間に対立があったことはよく知られている。

アメリカ(ルーズベルト大統領)はフランスの解放という政治的成果を最優先して、後のDデイ、ノルマンディーへの上陸作戦を主張した。

それに対してイギリス(チャーチル首相)は、イタリアに上陸し地中海の枢軸国背力を無力化した後、バチカン半島への上陸作戦を敢行するよう主張した。スターリン嫌いのチャーチルは、ソ連が単独でドイツを屈服させることを懸念し、ソ連がドイツに攻め入るルート、つまり東ヨーロッパに自由主義陣営の軍隊によるクサビを打ち込みたいと切望していたと言われる。

両者の意見対立の帰趨は歴史が示すとおりで、連合軍の自由主義国陣営はベルリンから遠いフランスの海岸に上陸し、そこから幾多の苦難と多くの時間を費やしながら東へ向かうことになった。そしてナチスドイツが屈服することになるベルリン攻防戦はドイツとソ連との間で戦われ、ついにナチスドイツの首都に赤軍旗がはためくことになった。

これは単に米英がソ連との先陣争いに敗れたことを意味するだけではない。ソ連は国境線からドイツに至るまでの地域、戦後に東ヨーロッパと呼ばれることになる地域に対して絶対的な影響力を及ぼすことになった。

恩賞などというと古い時代の歴史用語に聞こえるかもしれないが、第二次世界大戦を通して恩賞を手にすることができた国は、戦勝国と呼ばれるアメリカでもイギリスでも、まして敗れた日独でなどあろうはずもなく、各国が戦前と同じがそれより以下に影響力を縮小する中で、結果的にソ連だけが東欧に誕生させた衛星国家を含めた形でその影響力を伸長することに成功した。

第二次世界大戦を集結に導いた「スター」のように目される米英ですら、戦争の仕舞い方、戦争が終わった後の戦略については躓いていたのだ。

いや、そればかりではない。ヨーロッパ戦線終了の結果が、日本への「原爆投下」を後押しする要因になった可能性は否定できないと思う。

どう始まるかも、どんな形で仕舞うかでも、戦争はどうなるのか誰にも分からない。ひとつだけ分かっていること。それは、戦争によって想定を遥かにしのぐ被害が人々にもたらされるということだ

戦争はどのような経緯で始まってしまうのか、常人にはその未来を予見することはできない。それと同様に、どんなに綿密そうな計画を立てたとしても、戦争がどのように終わるのかを策定することは常人には不可能だ。

半年1年は存分に暴れましょう、との山本元帥(戦死の後に昇進)の言葉はある意味、きわめて正直な心情の吐露。いやむしろ半年1年先を見通すことができた慧眼は讃えられるべきものかもしれない。

明らかなのは、先を見通すことなど常人には不可能だということだ。ここで言う常人とは、神ならぬ人間すべからくという意味だ。どこかに人知を越えた超越的な判断ができる人間がいるなどという下らない意味ではない。

常人にできること。それは戦争が始まらないように全知全英を注ぐことのみ。それ以外には何もありえない。

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